#15 ニセモノの恋
紅白戦の後、シゲは後頭部を勢いよくひっぱたかれた。 「調子がおかしい!」 これ以上なく、きっぱりと断定される。 叩いた相手は例によって吉田光徳で、びしりと指先をシゲに突き付け試合でのシゲのミスを次々指摘した。 「まだ正月ボケなんか? いつものお前らしぃないで。安定したプレーがお前の売りやろが」 ああそうやったなと答えようとすると、またもや後頭部をはたかれる。 「こンの、ダぁアホが!」 振り向けば、ファイルを手に持った監督が立っていた。 「試合中にぼけっとしとるからミスしよるんや! ちゃんと集中せい!」 肩をいからせ去ってゆく監督の後ろ姿に、ノリックはいやに明るい声を出した。 「おいおいシゲやばいで、珍しくご立腹や」 「おお、そうやな」 軽口を返さないシゲを怪しむ顔になったノリックに、シゲは背を向けた。 「先戻るで。お疲れさん」 ノリックは追いかけてこなかった。
安心はつかの間だった。いつもどおり、着替え終えてロッカールームを後にしようとしたシゲの行く手を、ノリックを筆頭にチームメイト数人に塞がれる。先輩の姿もあった。 「白状せいや。なんかあったんやろ」 ノリックが言い出した。 「プライべートや、ほっといてんかノリック」 「嫌や。お前ホンマにおかしいで、いつもはそんなきっぱり断らんやろ。もっと茶化してごまかす筈やで」 「……余裕あらへんねん。悪いな」 押しのけようとしたシゲの胸を、ノリックは突き飛ばした。 「明日はちゃんとプレーできるんやったらいくらでもほっといたるけどな、今日のお前見とったら絶対無理やろうが。コンディション作れへんなら、プロ失格やぞ」 「……それを言われると……弱るわな」 観念してシゲは手近なベンチに腰掛けた。 よし、と車座にシゲを取り囲む野郎どもを見て、統制がとれているあたり流石チームメイト、なんてどうでもいいことを考えた。
「藤村」 先輩が名前だけで話すよう促す。シゲは前屈みになって両膝に両肘を乗せ、組んだ両手で額を支えるようにしてためらいつつ切り出した。 「おかしいんですよ。なんか胸んあたりもやもやして、食欲あらへんし、よう眠られん。不正脈ってんですかね、運動してもないのに、心臓おかしいにうつんですよ」 「原因は? 心当たりないんか」 「……頭から、はなれへん奴がおるんですよ。ずっと」 最後に彼女に会った日からずっと、シゲはおかしい。 「女か?」 先輩の問いに、まさか藤村に限ってという声が口々に上がる。 「まあ、女ではありますね」 シゲの答えに、ざわめきがぴたりと止んだ。 「……振られたん?」 まさかそんなわけないだろう、と表情に描きつつ、ノリックが尋ねた。 「振られたってか、振ったってか、試合放棄されたってか、複雑やねんその辺は」 「でも気になっとるんはそのひとなんやろ? 惚れとるんと違うか? 頭から離れへんなら、そいつのこと」 一人冷静な先輩が問い詰める。 「いや、それはありえへんですよ。だって、むちゃくちゃ気持ち悪いんですよ胸の辺り。こう、もやもやして、胸焼けっつーか、吐き気っつーか。惚れてるならそいつのこと考えたら明るぅなるでしょう」 「お前な……」 先輩が絶句した。 あの藤村が女に振られて落ち込んでるのかもしれないというショックから立ち直った他のチームメイトたちが、先輩と入れ替わりにしゃべりだす。 「ちょお待て藤村、じゃあお前、惚れてもいないのに付き合っとったんか」「藤村の彼女って、あの振り袖の美人のこと?」「流石にもう変わったやろ。半年も保たせる甲斐性がコイツにあるかいな」 「……好き勝手いいはりますな皆さん……」 ふうん、と会話を聞いていたノリックが、あっけらかんと問うた。 「結局誰やのん、その女て」 「……赤い振り袖の」 「付き合っとったん?」 「似たようなもんや」 「何とも思っとらんかったんか? そのひとのこと」 シゲはしばらく言うべきかどうか迷ったが、結局口にした。 「嫌いなんやって、ずっと思っとった」 「へえ」 ノリックがごく軽く返事をした。 「うわ、最低」「最低」「最低やな」 率直な意見が一斉にシゲに寄せられた。普段はなんでもないやり取りがサクサク刺さる。言い返さないシゲを呆れた目で見ているチームメイトたちを横目に、ノリックは腕組みをした。 「ようやくわかったで俺、なんで彼女が泣きよったんか」 「泣いた?」 「ずっと前、バックステージに彼女呼びよったやろ、そんとき彼女泣き出してもうて、何で泣いたんやろってシゲに聞かれたやん、俺」 そういえばそんなこともあった。 「……何で泣いたんや」 シゲには今でもわからない。 「ほんまにアカンな、お前」 ため息混じりに、先輩が肩を落とした。 「わからん。教えてくれ、さっぱりや」 「仕方ないなぁ。藤村成樹には好きで好きでたまらん人が居ります」 「おらんて」 「たとえ話や。居るって思っとき」 とりあえずシゲは最後まで話を聞くことにした。 「好きで好きでたまらん藤村茂樹の想い人は、シゲのことが嫌いです。嫌いなのに二人は付き合っとります」 「アホだな」 先輩が合いの手を入れた。 「そんでまあ、シゲが女の子に囲まれてちょっかい出されとるとこにその想い人が登場してですね、ひしっとシゲを胸に抱きしめて、『これはうちのやから手ぇ出さんといて』とか言うたら、シゲお前どう思う?」 「え、どうって……胸が当たってラッキー?」 ずっこけるノリックと、一層深々とため息をつく先輩。 「本気で好きなんやって言うたやろ! 何なんやその答えは。ボケるとことちゃうでシゲ!」 「あかんてノリック、こいつマジでわかっとらん」 え、ほんまですか、とノリックは先輩に視線で確認した。無言で頷いてみせる先輩に、 「では先輩、模範解答お願いします」 ノリックが仰々しく頭を下げる。 「ええか藤村、そら確かに惚れとる相手に抱きしめられたら嬉しいやろ。本気で惚れとるんやからな。でも、自分は嫌われとるって知っとるんやで彼女は。嫌ってるのに、口先だけで嘘ついて、周りにええ顔みせて、抱きしめて俺のもんやって言うてる。 されとることも、言われた言葉も、嬉しいのに喜べん。嘘なんやからな。本気で惚れてる分、辛ぁなるんや。だから泣いたんやろ」 先輩は無言で固まっているシゲを見やった。 「なんでお前がそんなんなっとるか、まだわからんか?」 「……罪悪感てやつですかね」 シゲは小声で答えた。先輩に示されたことだけでなく、シゲは今までさんざんに彼女を傷付けたに違いなかった。 彼女を嫌いだと思っていた頃は、傷付けたいと思っていた頃は、そんな感情は持たなかった。彼女を傷付けたいと思う反面、彼女が傷つくわけがないと思いこんでいた。彼女が嫌いなのは、シゲが自分を嫌いだということの、裏返しだったから。シゲが彼女に見ていたのはシゲ自身でしかなかったのだから。 だから遠慮も手加減もなしに、本気で敵意をぶつけることができていたのだ。彼女にしてみれば八つ当たりもいいところだ。 先輩がノリックに目配せをした。ノリックは先輩とシゲを残し、他のチームメイトたちとロッカールームを出て行く。 気付けば中には二人以外誰もいなかった。 「藤村、なんか、彼女にやられた、一番心に残っとること言ってみい。忘れられんことあるやろ。頭からはなれんなら。思い出すだけで心臓おかしいなること」 シゲは、頬に触れられたと答えた。 「どの辺」 「この辺を、軽く」 左頬を、触れずにただ手で示してみせる。そこへ先輩に触れられそうになって、シゲは慌ててその手をはたき落とした。 「痛って、お前思いっきりやりよったな」 手をさする先輩に、シゲは思わず大声を出した。 「何ですかいきなり! 男に触られたないですよそんなん」 「ホンマにそうか? 女ならよう触られるんか。女ならだれでも平気なんか? 彼女にされた時と同じ気持ちになれるんか」 「そんなわけないですよ。彼女とおんなし気分になんか絶対」 「どんな気分になるゆうんや」 先輩は突き放すような口調になって続けた。 「お前は罪悪感やゆうたけどな、罪悪感なら触られて妙な気分になることないんと違うか? 試合中まで頭から離れんなんてことないんと違うか? よう考えや藤村。もっぺん彼女に触られたら、どないな気分になるか」 先輩は立ち上がり、軽く後ろをはたいてからスポーツバックを肩に掛け、帰り支度をすませてドアノブに手を掻ける。 一旦捻って開きかけたドアを閉め直し、シゲの方へと戻ってきて、穏やかな口調で先輩は切り出した。 「本気になればなるほど、辛いもんなんや、惚れるっちゅーのはな。楽しいだけやあらへん。どんどん辛ぁなって、しんどくなって、こんなんいらんて投げ出しとぉなって、それで初めて本物なんや。覚えとき」 先輩はシゲの頭をぐりぐりとやり、ちゃんとしぃやプロなんやから、そう言い残して出て行く。
シゲはひとり残されたロッカールームで、自分で自分の左頬に触れようとして、ぎりぎりで手を止めた。
他の男も、女も、自分でさえ嫌だ。彼女の他の誰にも、そこには触れて欲しくなかった。
彼女の指先の感覚が消えない。微かに触れられただけなのに、絡めた指の感覚より、貪った唇の感覚より、遙かにはっきりシゲの頬に染みついて離れない。
そして始終、痺れるように疼くのだ。
不快でも、愉快でもない不思議な感動を伴いながら、シゲは彼女を思い出す。彼女の震える指先を思い出す。 「気分わっる……」 叫びだしたいという衝動に駆られた。何か形のないモノを、吐き出したい気がした。奇妙に跳ね回る心臓の周りで、灰色のどろどろした液体が延々掻き混ぜられているような気がした。
シゲは目を閉じ、声には出さずに叫んだ。
これが恋だというのなら。
このぐちゃぐちゃの感情が、本物の恋だというのならば。
今までしてきた恋は、全部、ニセモノだ。
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