#14 新婚さんに怒られる
上条麻衣子にあったその日の夜、都内某所にあるマンションのチャイムをシゲは押した。 カンコーン、カンコーン、とドアの外からでも聞こえるその音がやけに間抜けだと思いつつ、おとなしく住人の対応を待つ。 『はい、どなた』 それほど間を置かず、若い女の声がインターフォンから聞こえてくる。 「小島ちゃんこんばんはー旦那の友達ですー」 「名乗らない人は竜也には取り次ぎません。さよなら」 「ああもう、わかっとるくせにつれないなあ。藤村茂樹です」 「ハイハイ」 しばらくして、開いたドアから水野が顔を出した。 「お前な、来るなら来るって連絡しろよ」 「取り込み中やった?」 「礼儀ってもんだろうが。俺ひとりならかまわないけどな、有希もいるんだぞ。俺がどっか行ってて、有希ひとりしか居なかったらお前、どうする気だったんだ」 「あいかわらず心配性やなぁタツボン、いくらなんでも小島ちゃんに手ぇ出したりせえんわ。多分玄関先で追い払われるで俺」 シゲは小島有希に煙たがられているのだ。中学の時からずっとそうだった。夫の親友なら、少しは態度を改めてくれてもいいと思うのだが、おそらく無理だろう。 靴を脱ぎ、水野について廊下を歩く。 「まあ、今日のとこは、小島ちゃんに用があって来たんやけどな」 「何の用だ」 振り返る水野に、ぎらりとした目を向けられる。シゲはため息をつきたくなった。 「どんだけ信用ないねん、十年来のダチなんやで、俺ら」 「だからできないんだよ。今までのお前の女性遍歴知ってりゃ、信用なんて絶対無理だ」 水野はリビングへのドアを開けた。広い間取りにはベージュや茶で色調をそろえられた家具が並んでいる。 「適当に座ってろ。有希呼んでくる」 シゲはひとりソファに座り、まわりを見回した。突然の訪問だが、きちっと整頓されている、生活臭のあまりしないリビングだった。二人とも海外でプレーしているプロだから、このマンションを使うのはオフシーズンのみ、いわば別荘のようなものだ。生活臭がなくとも不自然ではない。 それでもシゲは、二人は上手くいっているのだろうかと少し心配になった。 結婚イコール幸せではない。永遠の愛なんてのも、多分ないだろう。結婚したからといって、確かなものは何もないのだ。 水野はとことんシゲを信じていないようだが、小島有希にちょっかいを出すといった、二人の間を壊すような真似をするつもりは、シゲにはまるでなかった。 二人には、上手くいって欲しい。永遠はなくとも、少しでも長く続けばいい。もし壊すものがあるならば、シゲは取り除こうとするだろう。全力で。 この感情はなんなのだろうと、シゲは思った。水野と有希の幸せを願うことはできる。幸せであってほしいと願っているし、そうなるための協力は惜しまない。 それでも。 別れ際の、彼女の台詞が蘇る。 『ちゃんと幸せになりなさいよ。きっと、望みさえすれば、あなたならいくらでも幸せになれるから』 幸せな自分。幸せになれる自分。幸せを望んでいる自分。 どれも、まるで想像がつかない。幸せになれと言われても、無理だろうとしか思えない。 彼女の台詞を聞いて、それは無理だとだからシゲは咄嗟に思った。 なのに同じ事を、シゲは水野と有希に願っている。 しかめっ面の有希が、水野に続いてリビングに入ってきた。 「……コーヒーいれる」 ぼそっと呟き、キッチンへ向かう有希にシゲは苦笑した。どこまでも嫌われている。シゲが有希に幸せを願っていると言ったところで、なにそれいやみ? と返されそうだ。水野に言っても同じこと。お前が言うと逆に不幸になりそうだと、眉間に深くしわを寄せながら彼は答えるかもしれない。 どうか幸せになって欲しいと、誰かの幸せを願うのは簡単なのだ。幸せになることに、シゲ自身が幸せになろうとすることに比べれば。 彼女は気付いていたのだろうか。だからあんな事を言ったのだろうか。
「京都住まいのあんたが、いきなり家に来ると思わなかったわよ」 湯気の立つカップをシゲにだけ出した有希はそう切り出した。 「まあ、こっち出て来とったから、ついでにな」 「俺が同席していてもいい話か?」 立ったままだった水野は、なぜか有希を見て言う。 「まあ、言いふらしたりせえへんかったら大丈夫や。二人きりになんてさせたないんやろ、タツボンは」 水野は無言でシゲの向かい側、有希の隣に腰を下ろす。 「いやまあ、小島ちゃんに聞きたかったんは、上条麻衣子のことなんやけどな」 「……麻衣子が何?」 「小島ちゃんて、中学ん時からお嬢の親友やったよな、確か」 「そうよ。だから何」 刺々しい口調にめげずに、シゲは尋ねる。 「中学ん時、お嬢からなんか恋愛相談とか受けとった?」 「受けたわよ。あたしも麻衣子に相談してたし。何が聞きたいのよあんた」 シゲは有希の気勢を削ごうと、軽く手を振りながら言った。 「せっかちやなあ。落ち着いてぇや小島ちゃん。もう水野やけど、水野ちゃんてよんだらタツボン呼んでるみたいで気色悪いんやから、我慢してくれ」 「呼ばれ方なんてどうでもいいわよ。だいたい、事情も話さずに答えだけ引きだそうっていうのが卑怯なのよね。ちゃんと説明しなきゃ答えないからね、あたし」 「お嬢って、もしかして俺のこと好きやった? 中学ん時」 有希には説明したくなかったシゲが口にした、冗談混じりの口調での質問に、水野と有希、両方が固まった。 二人の反応にシゲは目をみはり、とっさに言葉が出なかった。 「うっわ、やっぱ勘違いやったんか。自惚れすぎやな俺も」 しばらく後、固まったままの二人を前にして出てきたのは、そんな台詞だった。シゲは言いながら安堵した。やっぱり、上条麻衣子は嘘をついていたのだ。あれは全部演技だった。彼女がシゲを好きになんてなるわけがない。中学当時を振り返れば、確かめる必要もないほど、当たり前のことだ。 「シゲお前、どこからそんなこと聞きつけたんだ」 先にフリーズからとけた水野に、そんな言葉を投げつけられる。 「ええやんそんなん誰からでも。そろそろお暇するわ、新婚さんジャマしたら罰あたってまう」 腰を浮かせるシゲを、鋭く有希が引き留める。 「待ちなさい。そこに座りなさい」 「そんな犬にするみたいに命令せんでもええやん」 「いいから座りなさい! 竜也、ドア塞いで。白状させるまで、コイツ死んでも帰さない」 軽くシゲを睨んでから、水野はおもむろに立ち上がり、リビングのドアに寄りかかった。 かかあ天下なんて言葉が思い浮かんだが、有希の形相に言い出せず、シゲは言われるまま、ソファに座り直す。 「一体なんなんや、小島ちゃん」 「うるさいわね。あんた質問に答えなさいよ。だれからそんな話聞いたの」 「……それは、」 「麻衣子本人からね」 きっぱりと有希は言い切る。 「なんでそう言えるんや」 「簡単。あたしと竜也と、麻衣子しか知らないからよ。麻衣子があんたを好きだったって気付いてる人は、他にはいないの。中学の時、麻衣子はあんたを嫌ってたって、みんな思ってるわ。あんただってそうだったでしょう。あたしも竜也も言ってないんだったら、麻衣子本人から聞いたに決まってるわ」 シゲは呆気にとられた。 表情を作ることも忘れ、ただ呆然と、ソファの背もたれに寄りかかった。 では本当に、上条麻衣子はシゲを好きだったとでもいうのか。 今日の彼女の言ったことは、全部本当のことだというのか。 スタジアムに来た理由も。 十一番としか呼べなかった理由も。 弱々しいと、泣き出しそうだと思った彼女の姿も。 あなたが好きだという言葉も。 「ありえへんやろ、だってそんなん」 独りごちた。 中学の頃から彼女がシゲを好きだったなんて、ありえない。中学時代に、彼女がシゲに取っていた態度を、シゲが彼女にしたことを考えれば、絶対に、あり得ないことだ。 「シゲ、麻衣子になんて言われたのよ」 混乱のさなかにあったシゲは、つい答えてしまう。 「今日、ずっと好きだったって言われて、終わりにしようて」 「終わりって、あんたたち付き合ってたの? 付き合おうって言い出したのはどっちからよ」 「付き合ってたわけやない。勝負してたんや」 「勝負?」 「どっちが相手を先に惚れさすか、ゆう」 「ああもう、意味がわからないわ。最初から説明しなさい。一言一句、ちゃんと再現しなさい!」 それは流石に無理だろうと思いながらも、ダイジェストで説明する。 まともな頭の時ならば、今までのいきさつを小島有希に言ったらどうなるかの予測ぐらいついただろう。 けれどこの時のシゲは、話を進めるにつれて有希の手がぐっと握られ震え出すのも、その顔が怒気を増していることにも、あまつさえ水野がいつの間にかソファまで戻ってきていることにすら、気付かなかった。 上条麻衣子が乗った白いセダンを見送った所まで全部話し終えたシゲを待っていたのは、四角いクッションの一撃だった。 「有希、投げるな」 その一言で、水野がクッションの次にリモコンを投げようとしていた有希を抑える。 「っだって!」 手の中のリモコンを水野に大人しく取り上げられながら、有希は叫んだ。 「ひどいじゃないの、こいつ中学の時からなんにも変わってない、だから麻衣子はっ」 息を切らす有希に、シゲは半ば放心しつつ聞いた。 「中学からやって? じゃあなんで、あんなに突っかかってきよったんや。嫌いやっても、言うてたし。嘘ついとるんとちゃうか、お嬢も、小島ちゃんも」 水野が眉間にしわを深く寄せ、シゲに言い聞かせるように呼びかけた。 「シゲ。どうして上条が、ずっとお前に好きだって言わなかったか、わからないのか?」 「さっぱりや」 「中学の時、上条に告白されたら、お前どうしてた」 「断ったやろな。中学の時は、誰とも付き合う気ぃなんかなかったし、相手がお嬢やったら、絶対ありえへんかった」 シゲに突っかかってくる前の、入部当初の彼女でもシゲは断っただろう。 「再会した時ならどうだ」 シゲは少し考えてから、答えた。 「あん時はちょうど彼女がおらんかったから、付き合ったかもしれん」 「本気で? 遊びとか、暇つぶしでじゃなく?」 有希の厳しい問いに、シゲは黙り込む。 「あんたは何も変わってない。だから麻衣子は告白できなかったのよ。告白すらさせてくれないなんて。麻衣子、あんたがみてないとこで、すごく泣いてたのよ、中学の時」 有希は言い募った。シゲを睨んでいたその視線は、次第に下に落ちてゆく。 「本気の恋ができない男に恋するなんて馬鹿よ麻衣子は。こんな最悪の恋の終わらせかたって、ないわ」 有希は自分に言い聞かせるような口調でそう言うと、ソファから立ち上がった。 「あたし、麻衣子のとこ行ってくる」 「ちゃんとタクシー使えよ。もう夜遅いんだからな」 水野に頷きを返し、有希はリビングを出て行った。 相変わらず黙り込んでいるシゲに、水野は、酒でも飲むかとグラスとウイスキーを持ってきた。 適当に注ぎ、水野はひとりで先に飲み始める。 「有希は上条の親友だから、どうしても上条寄りになるんだ。有希はああ言ったけどな、俺はお前ばかり責められないと思うよ。お前に告白しなかったのも、ずっと嘘をついていたのも、全部上条が望んでそうしたことだ。 俺だって、中学の時は上条がお前を好きだったなんて知らなかった。卒業式の後、有希からそのこと聞かされるまで全然気付かなかった。 お前の方には上条になにかあるって勘繰ってたけど、上条の態度は徹底してたからな」 シゲはグラスを取り、自分の分の酒を注いだ。 「俺は隠しとらんかったからな……俺がお嬢をどう思っとるって勘繰っとったんや、中学んときは」 「お前、最初上条を避けてたよな。逃げ回って無視してた。ただ単に、苦手なのかと思ってたよ」 「そうなんか」 シゲは軽く笑ってから、口を酒で湿らせた。 「俺の腹の中なんて、汚ったないもんなんや。まだ中坊やったからな。男と女が奇麗事だけやないゆうことも、知っとったけど納得はしてへんかってん。女手ひとつで子供育てる苦労も、独り身の心細さもおんなしや。 でもわかった気ぃになって、納得してます、もぉすっかり気にしとらん、こっちも大人やけぇわかっとる、そんな風にしとった。見栄やな。おかんもおとんも、好きでもないし嫌いでもない。あの頃の俺は本気でそう思っとったけど、正直今なら、ただの強がりやったと思うわ。 おかんが好きやったし、捨てられて辛くて嫌いやった。恨んどった。おとんが大嫌いやった。でもどっかで愛されたい思とった。 そんなん滅茶苦茶になって、腹の底沈んどったんや。 あの頃の俺は、そんなもん、見とぉなかった。あるって認めとぉなかった。 なのにお嬢はあの目で、俺の腹の中なんかお見通しやって態度、取るんやで? 自分の一番見たくないもん、あるって思いたないもん、目の前につきつけられるんや。 逃げん方がおかしいって」 「じゃあ逆に、攻撃仕掛けるようになったのはなんでなんだよ。三年になってからは、確かお前からちょっかい出してただろう。敵意剥き出しで」 「逃げられなくなったんや。崖っぷちまで追い詰められてもうたんやな。そしたら反撃するしかないやろ、こっちも。 傷付けたかったんや。傷付けて泣かして、遠ざけておきたかった。俺のこと嫌っとって欲しかったんや。お嬢は俺の腹の中、全部見通しとったんやから」 彼女は、シゲの腹の中を見ていた。彼女を遠ざければ、シゲは自分の腹の中から目を背けられると思ったのだ。 彼女を傷付ければ、シゲの腹の中にある感情も、傷付けて押し殺してしまえると、そんな風に。 シゲは彼女に、シゲの中の嫌いなものを見ていた。だから彼女が嫌いで、天敵だと思っていたのだと、決して上条麻衣子自身が嫌いだったのではないのだと、シゲは今になってようやく気付いた。 「なるほどな」 水野は真摯に頷いたかと思うと、突然呆れ声になった。 「で、ああいう態度にでるわけか? よりによって」 「ああいう態度?」 「中三のバレンタイン。お前、上条の目の前でチョコ捨てたんだろ。あれはひどい」 そういえば、そんなこともあったと、シゲは思い出した。 「すんませんガキやったと思います」 「謝る相手が違う」 「あ、じゃ小島ちゃんに」 「もっと違う」 水野は一気に酒をあおり、グラスを空にした。 「上条に口止めされてること、俺は酔っぱらってる、ってことにして言うけどな」 素面と変わらない顔で、水野はシゲの顔をじっと見た。 「結婚式の夜、ホテルで上条とすれ違ったって言ったろ」 「ああ、言うてたな」 「すれ違いざま口止めされたから今まで黙ってたけど、上条、泣いてたんだ」 シゲはその夜にあったことを一気に思い出して、目元を手で覆い、うつむいた。 「……だから言ったんか? 優しくしろって。泣かせるなって」 水野はその質問には答えずに、空のグラスをテーブルに静かに置いた。 「あのバレンタインの時も、俺がすれ違った時は普通の顔してたけど、後で泣いてたんじゃないのか? 上条は」 そう言って水野は立ち上がった。 「酒切れたな。持ってくる」 「……いや、もうお暇しまっせ。目的は果たしてもーたし、新婚さんの邪魔すんのは悪いし」 「お前が帰っても、有希が帰ってこなきゃどうしようもないだろうが」 「帰って来ぃへんの?」 「帰ってくると思うか?」 水野は言い残し、さっさとリビングを出る。 「……わぁ、小島ちゃんてお嬢大好きなんやな。哀れタツボン」 独り言が寂しく部屋にしみいった。 タツボン、お嬢。似た系統の呼び名。ならば呼ぶようになったいきさつも同じだろうと、シゲは思い出そうとした。 お坊ちゃんだったから、そう呼んだのだ。金持ちの家、素直な態度。きっと、両親から愛されている子供なのだろうと、上条麻衣子もそうなのだろうと。 思い違いだったかもしれない。 シゲは水野の泊まっていけという勧めを断り、駅へ向かった。始発までの時間をベンチに座って過ごし、新幹線に乗り換えて京都へ戻る。アパートには、朝の十時頃についた。 固定電話の隣に無造作に置かれた、彼女の携帯番号が書かれた紙が目に入った。 シゲを好きだったというのは本当なのかと、もう一度、上条麻衣子本人に聞いてみたかった。有希や水野になんと言われても結局、心の底から信じることはできなかった。二人とも、シゲを謀るような人間ではない。なら事実なのだろうと、頭では思う。 それでも、高飛車で傲慢な、強い彼女の印象が強すぎて。その全部が嘘だなんてことが、はたしてあり得るのか。 これで最後だと、シゲは彼女の携帯番号をコールする。 いつもと同じで、繋がらなかった。 シゲは受話器を置く。たいがい、未練がましい。 彼女は勝負を終わらせたのだ。彼女の負けという形で、彼女は勝負を降りた。シゲは勝負に勝ったのだから、彼女に執着する理由は、もう無いはずだ。シゲがずっと彼女を忘れられなかったのは彼女に勝てない屈辱感からなのだから。 忘れられる。これで、きれいさっぱり。 シゲは赤い数字の書かれた白い紙を捨てようとして手に取った。 ふと一つの可能性に思い当たって、もう一度、受話器をあげる。 番号案内を呼び出し、その白の紙ナプキンに印刷されてある店名を告げ、問い合わせる。 全国に同名の喫茶店は15軒。 上条麻衣子と再会した、甲府のスタジアム近辺にはなかった。 東京に13軒、他は海を渡っている。 『今日、お見合いだったんですの。あまりに退屈で中座して来たんですわ。そしたら近くのスタジアムでサッカーの試合をやってるんですもの、気晴らしにと思って入ってみたのよ。こんなことになるなんて、全く思いもしませんでしたわ』 スタジアムの近くでお見合いだったのなら、なぜこの喫茶店の紙なんか持っていたのだろうか、彼女は。 『最初は、あなたの姿が見られればいいと思ったの。ずっとあなたに会っていなかったから。ちゃんと直にあなたの姿を見れば、私のことなんか欠片もあなたの頭の中にはないって、思い知らされると思ったの。そうすれば、何かが、変わると思ったのよ』 まるで逆だ。 どちらかが、嘘だ。 甲府でお見合いだったからといって、東京の喫茶店の紙を持つことができないわけではない。あらかじめ手に入れておけばいいというだけの話だが、お見合いの席にわざわざそんなものを持つ必要は無いはずだ。 それよりも。 東京で見合いを抜けだした彼女が、どこか喫茶店に入ったとしたら。鞄を持たないまま抜けだした彼女が、少々多めに喫茶店の紙を失敬したとしたら。そして、東京からわざわざシゲに会いに来たのだとしたら。
シゲの脳裡に、彼女のイメージが鮮明に蘇る。
挑むような目と、強気の口調と、高飛車な表情をした彼女と。
震えるような声と、泣き出しそうな顔をした彼女。
まるで逆、どちらかが嘘。
「……嘘やったんか?」 今までシゲが上条麻衣子だと思っていたものは全部。
「阿呆や俺」 思わず呟く。 『嘘だったのはむしろ、あなたが知っている今までの私全部よ』 最後の別れの前に、彼女ははっきりそう言っていたのに。
ようやく事実を飲み込んで、シゲは床にしゃがみ込む。
『私はあなたが好きよ』 微かに。 視線を揺らしながら、そう言った彼女。
『さよなら、藤村成樹。ちゃんと幸せになりなさいよ。きっと、望みさえすれば、あなたならいくらでも幸せになれるから』 ごく軽く、掠めるように、シゲの頬に触れた彼女。
その指先は、震えていた。
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