#13 唐突な終わり
ほどほど程度に水野と飲んだ後、ひとり部屋に戻る。 携帯に、非通知設定からの着信と、メッセージが残っていた。
携帯電話が壊れたので、しばらく連絡は取れなくなる、用があるときはこちらからかける、そんなシンプルな留守電だった。
聞き間違えようのない、上条麻衣子の声だった。
数秒ためらって、シゲは彼女の携帯の番号をダイヤルする。電波が届かないか、電源が入っていない、とアナウンスされる。 携帯が壊れたなんて、嘘かもしれない。 電源をOFFにしているだけで、単にシゲと連絡をとりたくないのかもしれない。 複雑な気分だった。 彼女に勝ちたかった。負けたままでいたくなかった。けれど、なぜそうなのかなんて、考えてもみなかった。 『あなたは私に見抜かれているのが我慢ならないのよ。本音を知られているのが、弱みを握られるのが耐えられないんだわ。だから私より優位に立って平穏を取り戻そうとしてる』 わからない。そうだろうか。そう言われれば、そんな気もしてくる。 『惚れさせようが傷付けようが、どちらにしろ満足するんでしょう、あなた。恋愛で勝負なんて、本当は、最初っから、する気なかったんでしょう』 そうだろうか。この半年間、シゲは一体何をしていたのか。シゲは、一体何がしたいのだったか。 スーツのままベッドに仰向けに寝ころぶと、天井がゆっくり回った。 酔っているのか。 混乱しているのか。 シゲは眠れないまま夜を過ごした。
上条麻衣子の携帯電話は不通のままだった。機種変更なんてほんの数時間で済むのに、三日たっても一週間たってもつながらないのはおかしい。 おかしいとは思いつつも、毎晩十時頃、喫茶店の白い紙ナプキンに口紅で書かれた彼女の番号を無意味に眺めたりしながら、電話をかけてはつながらないのを確かめる日々が続いた。 彼女からの連絡があったのは、たっぷり二週間も後で、その頃にはクリスマスも正月も終わってしまっていた。 「十一番さん、お元気でしたかしら?」 またもや非通知設定で電話をかけてきた上条麻衣子は、そんな一言であいさつに代えた。 「……ずいぶんと久しぶりやな」 シゲはやっとの思いで答えた。彼女とスタジアムで再会してからの半年間、彼女の声を聞かない日はほとんどなかったのに、二週間もの間が空いたのだから、自然な答えだ。 「そうね、ごめんなさい。忘れていた訳じゃないの。ちょっと事情があって」 「どんな事情」 「会ったら話すわ……あなたが、まだ私と会う気があるのなら、だけど」 「いつがええんや」 「いつでも」 「じゃあ明日でどや?」 「ええ、いいわ」 「場所は」 「京都まで行きましょうか?」 「東京でええ」 具体的な場所と、時間を決める。 会えば二人の関係が変わるという確信を持っているのが、彼女の言葉の端々からわかった。 シゲが同じことを思っていると、彼女もきっと感じ取っている。 会話がとぎれた。 電話越しの沈黙の重さに、聞きたくてずっと聞けなかったことが、言うつもりもないのに口から飛び出た。 「お嬢、携帯、どうしたん? ずっと電源切っとるんやろ」 「……携帯なら、マンションの水槽に沈んでますわ」 彼女はぷつりと電話を切った。
次の日、シゲは車のステアリングにもたれかかりながら、彼女を待っていた。なんとなく、二人きりにならなければいけない気がしたのだ。人目を気にしなくていいような、話を聞かれないような状況。そう考えると、とっさに車が思い浮かんだ。 約束の時間ぴったりに、携帯が鳴る。非通知設定だった。シゲはすぐさまボタンを押し、耳に当てる。 「お嬢?」 「待ち合わせ場所、もう着いてる?」 聞き慣れた声だった。 「おるで。お嬢は?」 「そこから見えるかしら? すぐ傍の電話ボックスからかけてるわ、今」 シゲは周りを見回した。シゲが路駐している道の少し先に、三つ並んで電話ボックスが立っていて、真ん中のひとつだけに人影がある。 「見つけたかもしれん。今行くわ。俺、車に乗っとるから」 「車? 何色の?」 「水色」 「あ、見つけたわ」 シゲは携帯を切ってサイドボードに置き、車を進める。真ん中の電話ボックスの人物が、受話器を置いて外に出てきた。本当に彼女かと、シゲは一瞬目を疑った。 革のパンツに踵の高いブーツを合わせ、迷彩柄のジャケットのポケットに手をつっ込んで。 黒のハンチング帽に全ての髪を収めて、茶色のサングラスをかけ、紫の唇でガムを噛んでいる。 いつもの上条麻衣子のイメージとは、正反対の格好だ。 それでもその人物はまっすぐシゲの車へと歩き寄り、助手席の窓からこちらを覗き込んだ。 印象は違えど、間近に見ればその顔は上条麻衣子以外の何者でもない。 シゲは手を伸ばし、ドアを開けてやる。彼女は素早く助手席に乗り込むと、 「車を出して頂戴」 静かな声を出し、シートベルトを締める。 「目的地は」 ウインカーを出しつつ、シゲは尋ねる。 「あなたにお任せするわ」 「じゃあ軽くドライブといきましょか」 ゆっくりと車を発進させたシゲの隣で、彼女は口の中のガムをティッシュに出すと、丁寧にくるんでポケットにしまい込む。 「これ、あなたの車?」 「いや、レンタカーや。今度はちゃんとオートマ車やで。しかもサイドブレーキなし」 シゲはギアもブレーキもない助手席と運転席の間のシートを左手で軽く叩いた。 「昨日言っとった事情って、何やったん、お嬢」 運転にかこつけて、彼女の顔を見ないまま、シゲは切り出した。 「面倒なことになったの。かなりね」 彼女は帽子を外し、膝に置く。 「だから、これ以上、勝負を続けられない」 勝ち気な響きの欠片もない声。 「一体何があったんや。こないだのこと怒っとるんやったら、謝る。あれは俺が悪かった。やりすぎやった」 「違う。そうじゃないの。それとこれとは全然関係ないことよ。私の状況が変わったの。あなたとは、もう会えなくなるわ」 もう、会えなくなる。 その一言に、シゲは彼女の顔を見やる。茶色のサングラスをかけ、まっすぐ前を見ている彼女。 「父さんが。そろそろ、逃げられないみたい」 ぽつりと、こぼれるような、震えるような声に、シゲは問い詰めることができない。 「……勝負はどうするんや」 それだけをやっと返す。 「……大丈夫、ちゃんと終わらせられるわ。決着は、最初から、ついていたんだから」 彼女はひとつ息を吸って、ゆっくりと吐く。シゲは運転を続けられなくなって、手近な公園の駐車場へ入り、車を止めた。 エンジン音が静まるのを待っていたのか、静まった車内で、彼女はまっすぐ前を見たまま口火を切る。 「最初は、あなたの姿が見られればいいと思ったの。ずっとあなたに会っていなかったから。ちゃんと直にあなたの姿を見れば、私のことなんか欠片もあなたの頭の中にはないって、思い知らされると思ったの。そうすれば、何かが、変わると思ったのよ。 まさかバックステージに呼ばれるなんて思ってなかった。心の準備ができてなくて、強がるしかなかった」 「……お嬢?」 なんのことだとシゲに聞く隙を与えずに、彼女は帽子を握りしめて続ける。 「私の負けよ。あなたが好き。中学の時から、ずっと好きだった」 「嘘やろ」 考えるよりも先に、口が勝手にそう動いた。彼女は軽く唇を噛んでから、やっぱり目線は前に向けたまま答える。 「そうね、そう思うのは当然だわ。私はずっとあなたに嘘ばかりついてきたから。気持ちを隠してばかりいたから。でも、本当のことよ。嘘じゃない」 シゲは信じられずに黙り込む。 「今日は勝負を終わらせにきたの。もう時間がないから」 彼女はゆっくりと、こちらを見た。 茶色のサングラスに、紫の口紅。それなのにどうして、こんなに弱々しく見えるのだろうと、シゲは心中呟く。 いつだって高飛車で、自信満々で、シゲがどうやっても負かせない、そんな相手だったはずだ、上条麻衣子は。 なのに今は、シゲが不用意な事を言えば泣き出しそうに思えた。 こんな彼女は知らない。 こんな上条麻衣子を、シゲは知らない。 彼女はまっすぐシゲの目を見ている。 シゲも目をそらせない。 睨み合いではなく、ただ、見つめあう。 「私はあなたが好きよ。あなたは私を、どう思ってるの」 微かに視線を揺らしながら、彼女が言った。 「……俺は」 答えが決まらないまま言いかけたシゲの頭を、これは勝負なのだという声がよぎった。 彼女は全部演じているんじゃないか、シゲを好きだなんて嘘をついているんじゃないか、そんな考えが一瞬でめまぐるしく駆けめぐる。 「俺は……多分、嫌いなんやと思うわ」 言ってしまってから、シゲははっとなった。 彼女が泣くと思った。顔を歪ませると思った。 彼女から目をそらせないままのシゲは、彼女が長く瞬きをして、シゲの目をまっすぐに見つめ直すのを見た。 「わかったわ。ありがとう」 ひどく穏やかに言って、彼女はシートベルトを外し、ドアハンドルに手をかける。 「一体何なんやお嬢、これは勝負やったんか? 俺が好きなんて、嘘なんやろ?」 「嘘じゃないわ。嘘だったのはむしろ、あなたが知っている今までの私全部よ」 手を止めてそう答えた彼女は、後方からやってきた一台の白のセダンを不意に目で追いかける。植え込みの陰に隠れるように、その白い車は停まった。 「駄目。もう本当に時間切れだわ」 呟いて、彼女は黒のハンチング帽をシゲの頭に目深に乗せる。 「被っていて。あなたは目立つから」 シゲは、車を降りようとする彼女の右手首をつかんだ。 「お嬢、ちょお待ってくれ。意味わからん」 彼女は、ふっと頬をゆるませるようにして、微かに笑った。 「最後までお嬢って呼ぶのね、あなたは。 ……私も同じね、十一番なんて、呼んでばかりで」 彼女はシゲに体ごと向き直る。 「ごめんなさいね。ほかに呼びようがなかったの。あなたはずっと、佐藤成樹だったから。私にとっては、初恋の「佐藤」のままだったから。「藤村」なんて、どうしても、呼べなかった」 捕まれた右手を軽く持ち上げるだけで、彼女はシゲの手を外させた。 自由になった彼女の右手は、指先だけ、ごく軽く、掠めるように、シゲの頬に触れる。 「さよなら、藤村成樹。ちゃんと幸せになりなさいよ。きっと、望みさえすれば、あなたならいくらでも幸せになれるから」 助手席のドアが閉まる。 植え込みの陰の、白のセダンへと進む上条麻衣子は、歩きながらサングラスを外し、髪留めを取る。 一斉に長い髪が滑り落ちる。 白い指先が一度だけ、その黒髪に手櫛を通す。 いつだって真っ直ぐな彼女の背中が、白い車の助手席へと消える。 車は動き出して、シゲの視界から消え去った。
勝負はこうして、一方的に終わりを告げられた。
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