#13 降伏の対価、勝利の代価
麻衣子はタクシーに乗っていた。 鞄をまた置いてきてしまって、前のようにカードもないから、これは無賃乗車。 「すみません、私今持ち合わせが」 「ええって、俺が払う」 タイミング良く、幻の彼が言い出した。 麻衣子の幻覚であるはずの彼の声に、運転手がきちんと対応しているのが不思議だった。 こちらを見た幻の彼は、麻衣子と目があうと、ぱっと正面に向き直った。照れてるみたいに。 「このへんで」 懐から財布を取り出し、会計をすませる幻というのは、麻衣子はあまり聞いたことがない。運転手もタクシーもみんな偽物で、麻衣子が見ているものは全部、麻衣子の幻覚だとでもいうのなら、ともかくも。 タクシーは止まった。自動で開いたドアから幻の彼が降り立ち、麻衣子が降りるのを待っている。 夢でもみているのだろうか。 ああ、それとも、本当に死んでしまったのか。いつの間にか、こんな幻を見るほどに。 タクシーの背もたれに体をあずけたまま、彼の幻を見つめる。 差し出された左手に触れるとやっぱり暖かくて、不思議だった。 麻衣子はまた、その手に引かれるまま、タクシーを降りた。 住宅街とも商店街ともつかない、閑散とした、けれど交通量は多い道だった。 幻の彼は、麻衣子の手を握ったまま、なんだかひどくゆっくりと歩きだす。 振り返りもしないで。
すぐ傍を車が行き交っていて、煩い。 巻き起こる風が、薄いドレスを通って、肌を冷やした。 そういえばコートはホテルに預けたままだ。麻衣子は身震いをした。 足を止めた彼の幻が、無言でコートを脱いで麻衣子の肩にかけた。 手首を交差させるようにして両手でコートの合わせを掴み、かきあわせる。
やっぱり、暖かい。 麻衣子には大きすぎるそれには、しっかり温もりが残っている。 眉をひそめて顔を見上げると、目の前の幻は、口元を抑えながら、麻衣子の表情を伺っていた。 幻とは願望が固まってできるもののはず。では自分はこういう彼が理想だったのだろうかと、麻衣子は考えた。 やけに無口で、なんとなく、不安げで。 そんな彼、想像したこともなかったのに? 「……あのな、」 ひどく言いにくそうに切り出した彼は、首の後ろを掻きながらこう言った。 「お嬢 いや、間違うた」 「はい?」 つい聞き返した。 「いや、スマン、ちゃんと名前で呼ばなとは思ってんねんけど、なかなか」 見合い場所の扉の前で、いきなり目の前に現れて、麻衣子と名前で呼んだ、彼の幻。 そう、幻覚のはずだ。麻衣子と名前で呼ぶからには。 なのにお嬢? 「だってさっきは麻衣子って」 そう確かに言ったはずだ。 「スマン。つい癖で。ちゃんと言い直す」 言い直すって。 「麻衣子、あのな」 「うそ」 二文字で麻衣子は彼を遮る。 「……まだ何も言うてへんのに」 「嘘、本物?」 「はい?」 聞き返す彼。 「本当に本物なの?」 「……意味わからんのやけど、お嬢、本物って何が」 今、彼はお嬢と呼んだ。 「うそ……佐藤?」 「いや、まあ、お嬢が呼ぶなら佐藤でも藤村でもどっちでもええけど、一体何が本物なん」 彼がまた、お嬢と呼んだ。 彼は、では。 「本物……なの? 幻じゃなくて?」 そういうことかと彼が頷く。 麻衣子はようやく理解し、叫んだ。 「なんでここにいるのよ!」 「いや、何でって」 「何のために勝負を終わらせたと思っているのよ、どうして 」 途中で言葉を切り、麻衣子はあたりを見回す。 つけられてはいないだろうか。お見合いは今日、父の依頼だった調査は、もう終わっているだろうか。さっきまで父と一緒だったから大丈夫だろうか。 それでも、ああ、さっき麻衣子は思い切り見合いをぶち壊しにしたのだ。 こんな風に二人でいるのが父に知れたらどうなるか、もう本気でわからないのに。 「どうして来たりしたのよ! あんな、見合いしてる部屋の前にまでなんて、父に見られたらどうなるか 」 怪しい人影はない。近くに止まっている車もない。そう確認した麻衣子に、彼はまたしても言いにくそうに切り出す。 「……多分、見られたと思うで」 麻衣子は彼の顔をまじまじと見た。 「……いつ」 「お嬢の手ぇ取ってすぐ、お嬢のあとからそれっぽい人出てきたんや。それでつい逃げてしもうたんやけど」 「 うそでしょう?」 彼は否定の言葉を口にしない。 目頭が熱くなった。 彼に手を取られて走る麻衣子の姿を見ていたのなら、麻衣子が示し合わせて彼と逃げたのだと、父は思っているだろう。彼のせいで、麻衣子が見合いを断ったと思っているだろう。 父の顔を潰す、最悪の形で。 間違いない。それ以外は考えられない状況なのだ。真相は全然違うのに。 駄目だ、父はきっと。 麻衣子はうつむき、両手で目元を覆った。 「戻るわ」 戻って、父に頭を下げよう。見合い相手にも謝って、結婚できないと言ったことを取り消して…… 「 泣いとるん、お嬢」 彼が、気遣うような声を出した。 「あなたのせいでしょう」 麻衣子は幾粒か零れてきたものを指先で拭う。 彼以外と歩む人生なんていらないと、そう思ったのはついさっきなのに。 彼と共にある未来だけを、今だって心から望んでいるのに。 それでも駄目だ。 「もう、会いに来ないで」 視線をあげると、彼は強ばった顔をしていた。 彼のこんな表情は見たことがなかった。 「……見合いしに戻るんか」 無理矢理絞り出すように、彼は言った。 「ええ」 いつもとは違う彼に瞬きすらできずにいた麻衣子は、それだけを返す。 「じゃあなんで泣きながら出てきたんや。そいつと結婚したいんか」 「したくないわよ……仕方ないのよ、この状況じゃあもう」 他に考えつかない。彼を巻き込まない方法を見つけられない。父に逆らっても、父から彼を守れるほどの力を、麻衣子は持っていないから。 コートを返そうと、麻衣子は握りしめていた両手を離した。彼の温もりがまだ残っているように感じて、コートの引っかかっている両肩へと伸ばした手が止まる。 「……あなた、何しに来たの」 そんな呟きが、麻衣子の口から不意に漏れた。 「 勝負、や」 長い沈黙の後、車の騒音にかき消されそうな大きさで、彼は言った。 「勝負は俺の勝ちでええんやろ」 麻衣子は沈黙で答える。 「勝ったんなら、賞品ぐらい要求してもええかなー思て」 表情も声も、いつもの彼に戻った。 「……そう」 麻衣子は少しの間、目をつむった。 「ええ、無理でない範囲なら」 頬に落ちていた髪を耳にかけ、笑みを浮かべてみせた。それは弱々しかったかもしれなかった。 「何が欲しいの」 「簡単なことや」 彼は自分の左頬を手で示した。 「この辺、ちょいっと触ってくれん?」 「そんなことをして、何になるの?」 「ええから」 彼はなんだか、真面目、と取れないこともない顔になって、ぴったり口をつぐんだ。 彼はそのまま、麻衣子の目をじっと見つめている。 彼は待っている。 麻衣子が触れるのを?
突然、心臓の在処を思い出した。
忘れるわけがない。彼が示した場所は、麻衣子が彼に触れた場所だ。これが最後だと自分に言い聞かせながら触れた場所。 もう二度と彼には会えないのだと、もう触れられないのだと知りながら、掠めるように触れた場所だ。 さよならと告げながら、麻衣子は彼の頬に触れた。
また繰り返すのだと、麻衣子は思った。
これで最後になるのだ。 この恋を胸に抱いたまま、麻衣子はずっと歩いてゆくけれど。 彼とはもう会わない。 二度と触れない。 本当の本当に、これが最後。
麻衣子はゆっくりと右手を伸ばした。 肩からコートが滑って、地面に落ちる。 それでも彼は視線を動かさなかった。 彼の視線に込められている意味がわからない。なぜ彼がこんなに真っ直ぐに麻衣子を見ているのか、わからない。 でも、彼が本心から触れられるのを待っているのだと、それだけは感じ取れる。 寒さからではなく、指先が震える。 彼の頬に触れたと思った瞬間、彼は瞳を閉じた。 「なっ」 麻衣子は思わず右手を少し引いた。 引いた途端に彼の左手に捕まえられた。 「ちょっ、離し 」 「やっぱり震えとるんやな、手ぇ」 心から愉快そうに言って、彼はくしゃりと表情を崩した。 そんなことを知りたかったのか彼は。それだけのためにこんな? わざわざ見合い場所まで会いに来て? あんな目で見つめて?
一気に体が熱くなって、麻衣子は空いている左手を、彼の頬に向けて振り上げた。
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