#12 本物の恋
「今日も赤なのか」 マンション前に着いたハイヤーの助手席に乗り込むと、後部座席の父は麻衣子のドレスを一瞥した。隣の母は、父の横顔を無表情で眺めている。 「ええ。似合っているでしょう?」 麻衣子は乱れた髪を整えてから、シートベルトを締めた。 動き出した車内に沈黙が満ちる。これから結婚相手と会うというのに、普段の見合い以上に相手に無関心な自分に、麻衣子はひとつため息をおとした。 彼との勝負に決着をつけてから、もう一月が経つというのに、相変わらず、麻衣子の心は奇妙に静まったまま。彼への想いを吹っ切れているのか、自分でもよくわからない。 携帯は今も水槽の底に沈んだままで、見る度に麻衣子は、平坦なのにどこか曇りがちの自分の心に首をかしげる。 恋の終わりは自覚できないけれど、そんなはっきりしたもののないまま、とっくに終わっているのかもしれなかった。
同じ相手との二度目の見合い会場は、結納にでも使われそうな、ホテルの小さな洋室だった。 手順どおりに進められる儀式。 型どおりの会話。 前回と違うのは場所がホテルの洋室であることと、麻衣子が洋服を着ていることぐらい。いや、後日あらためて返すことになる返事の内容も違ったものになると、麻衣子は思った。 有希にはああ言ったけれど、おそらく麻衣子はこの話を断ることができないだろう。 彼を……いや、有希のことを取引に持ち出されれば、麻衣子は従わないわけにはゆかない。手段さえ選ばなければ、相手が有名であればあるほど、陥れることは簡単だから。 父の希望通りの進学先、全滅だった就職先。 選択肢も逃げ道も、いつも綺麗に塞がれていた。
麻衣子はただ微笑み、頭を下げる。 穏やかそうな、感じの良い人だ。この人と結婚して、家庭に入って主婦になり、夫を見送って毎朝毎晩ご飯を作る。子供もできるかもしれない。平凡で、でもおそらくは幸せな人生。
幸せな、人生?
麻衣子は自問する。
感じない。 幸せは感じない。 麻衣子の心は灰色に凪いだままだ。
この人と添えば、大事にしてもらえるだろう。何一つ不自由なく、麻衣子は暮らしてゆけるだろう。 そうして、一生を過ごすのだ。
今の麻衣子のまま。 静かに沈んだ心を抱えたまま、半ば死んだように。
ずっと続いていた、この心の原因が、ようやくわかった。 強い喜びも悲しみもなく、痛みも感じない。心が波立たない。 死にかけていたからだ。 彼にはもう会えない。二度と触れられない。 その事実を麻衣子は受け入れてしまった。 だから、麻衣子の心はずっとこのままだ。 麻衣子はこの人と結婚して、この人と一生を過ごすのだろう。死にかけた心を抱いたまま。
そんな人生、欲しくない。
微笑んだ麻衣子の瞳がにじんだ。 彼がいい。 彼でなければ、幸せは感じない。 彼でなければ麻衣子は痛みすら感じない。 彼に会わなければ、会って彼に触れなければ、麻衣子の心は死んでしまうだろう。 彼がいいのだ。 彼でなくては、嫌だ。 辛くても、苦しくても、手に入らなくても。 幸せな結末なんか、絶対にありえなくても。 与えられるのが、痛みだけだったとしても。 それでも彼がいい。
彼以外の人と歩む人生なんて欲しくない。
彼と共にある未来だけを、麻衣子は望む。
どれだけ傷ついても。
ああ、ちゃんと、本物になったじゃない。ニセモノだった恋が。 これは本物だ。麻衣子はようやく、そう心から頷けた。
本物にすれば忘れられるなんて、そんな訳なかった。 きっとこの恋はこのまま続く。 本物の恋は、忘れられないままに続いてゆくのだ。 全部抱えたまま、麻衣子は歩いてゆくだろう。 たとえ、もう二度と彼に会えなくとも。 麻衣子が生きている限り。
頬を涙が伝う。 突然泣き出した麻衣子を、父も、母も、見合い相手も唖然として見ていた。 麻衣子は自然に立ち上がっていた。 「……ごめんなさい、結婚は、できません」 呟いた。 「……ごめんなさい、許して、父さん」 父に懇願した。結婚はもうできない。 麻衣子が断ることで、父の立場がどうなるかわからなかったけれど、謝るより他にできることがない。 「ごめんなさい」 繰り返し、麻衣子は目頭を押さえながらドアへと歩く。背後で父が立ち上がる気配がした。 麻衣子は押し開き、外へと体を滑らせる。 ドアのすぐ近くに立っていた人物が、出てきた麻衣子に振り返った。 金色の髪をした、背の高い男の人。 麻衣子はわが目を疑う。 「麻衣子」 手をさしのべられる。 ああ、これは幻覚だ。彼が麻衣子の名前を呼ぶなんて。 幻覚の彼の手に、右手を重ねる。 なぜか温度のあるそれに引っ張られるままに、麻衣子はホテルの廊下を走り出した。
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