#11 不可思議な、恋のあと
マンションの部屋で、麻衣子の話を聞き終えた有希は、しばらく間を置いてから、どこか呆然とした声音で言った。 「結婚……するの? 麻衣子、じゃあその人と?」 ただでさえぱっちりした瞳の有希が、さらに目を見開いている。 「冗談でしょ? そんな、親に決められたからって、今どき……」 麻衣子は紅茶を一口飲んだ。長々と話してしまったから、やっぱり冷めている。ソーサーにカップを戻し、ぱらぱらとテーブルの上の調査報告書をめくった。 「ほんと、時代錯誤よね。笑っちゃう。普通の世界ではないのよ。こんな物が、当たり前に行き交う世界なの。父や、私の家が関わっているのは。 弱みを握るために罠をかけるのも、かけられるのも日常茶飯事。だから結婚するのも、叩いて埃のでない相手じゃなきゃならないのよ、弱みになるから。見合い相手の素行調査は珍しい事じゃないわ」 麻衣子はひとつ大きくため息をついた。 「この調査報告書はね、調査事務所に押しかけて取ってきたものよ。きっと、依頼人は見合い相手の親でしょうね。お姉ちゃんも結婚するまではさんざん尾行されたって言ってたわ」 有希は麻衣子をじっと見つめている。 「麻衣子」 「大丈夫よ、まだ結婚するって決まったわけじゃないわ。最終的に、私の意思がなくちゃいけないんですもの」 「見合いはするの?」 「ええ、してみようと思ってる。もしかしたら、運命の相手なのかもしれないじゃない? ちょっとしか会ってないけど、いい人みたいだったし」 そう明るく言うと、有希の顔は曇ってしまった。 「無理しないでよ麻衣子。あたしの前でまで、強がらないでよ」 「無理はしていないつもりよ。自分でも不思議なの。やけに落ち着いているのよ、はっきりふられたのに」 本心からの台詞だったのだが、有希はそうは取らなかったらしかった。 「そんな泣きそうな顔しないで。せっかく泣きやんだんだから。美人が台無しよ」 「だって……つらくないはず、ないじゃない。一人でいっぱい泣いたんでしょう?」 「泣いたわ。ちょっと最近無かったぐらいの泣き方だったわよ、あれは」 軽い口調でそう返すと、有希は立ち上がって麻衣子の前に座り直し、手を伸ばす。 「がんばったね」 そう、麻衣子の頭を軽く撫でて有希が言った。 麻衣子はくすりと笑みを漏らした。 「……中学の時も、こうして貰ったことがあったわね。有希、覚えてる?」 撫でながら、有希は答える。 「覚えてるわよ勿論。泣いてる麻衣子に、シゲにチョコ捨てられたって聞いて、あたしが怒鳴り込みに行こうとしたらさ、麻衣子、泣きながら止めるんだもの。本当、あのとき殴っておけばよかった」 「懐かしいわね」 麻衣子は、有希が撫でやすいように少し下げていた頭を起こした。 「さっさと忘れちゃいなさいあんな奴。後で殴っとくから」 有希はぐっと握り拳を作る。この親友なら本気でやるだろう。麻衣子はてのひらを有希に向け、軽く振った。 「それには及ばないわ。本当、どうしてなのかしら。それほど落ち込んでいないの。もっとぼろぼろになると思ってたのよ。半日しか経ってないのに、もう踏ん切りがついたのかしら」 「もうすっきりしてるの? 爽快な気分?」 「……そこまではいかないけど」 不思議と、麻衣子の心は凪いでいる。 静まりかえった、波ひとつない、灰色の海。そんなモノクロの、微動だにしない風景を、じっと見ているような気分だった。 思い描いていた、切り裂かれるような痛みとは無縁だった。 「結構頑丈だったみたいよ、私。ちゃんとご飯も食べられたし」 有希は疑うような視線を消さないままに、 「麻衣子が元気ならそれでいいのよ」 と頷いた。
「ね、今日泊まってっていい?」 「いいけど、ちゃんと水野に連絡してある?」 「こんな遅くに麻衣子の家に来といて、帰ってくるなんて思っちゃいないわよ」 有希は口をとがらせる。こういう余裕は、信頼しあっている証拠だと、麻衣子は思う。 「上手くいってるのね?」 笑い混じりに尋ねると、有希は顔を赤らめて目を逸らした。 「べ、別に、普通よ。ふつう」 「ふうん、そう。よかったわね」 「普通だってば!」 「いいじゃない、普通が一番よ。新婚の普通が本当に普通かどうかは、独身の私にはよくわからないけどね?」 「麻衣子!」 「照れない照れない」 「もう、麻衣子までからかわないでよ……みんなにさんざん言われてるんだから」 耳まで真っ赤になった有希が顔を膝に埋めてしまったので、麻衣子はその頭をぽんぽんと叩いた。 「明日の朝ご飯の準備するけど、何がいい? ご飯と、パンと、パスタと……お粥もできるけど」 「……ごはん」 くぐもった声が聞こえてきた。 「お米炊いておくわね」 麻衣子は立ち上がった。 「何か手伝うこと、ない?」 「そうね……」 寝る前にやることは、朝ご飯の準備と、学校へ持って行くものの準備と、水槽の魚に餌を…… 「水槽の魚に餌を、あ、なんでもない」 麻衣子は慌てて打ち消した。 「魚にエサね。えっと、エサはどこ?」 有希は立ち上がり、水槽の方へと歩きだしてしまった。 「有希、やっぱりいいわ。昼間にあげたから」 「え、いいの? あれ、何か沈んでる……」
遅かった。
気付かれてしまった。
有希は麻衣子に振り返り、おずおずと切り出した。 「水槽の中の……麻衣子の携帯だよね。電話番号変える前の?」 「……そうよ。自分で沈めたの」 有希が顔色を変える。 「どうして?」 麻衣子はしばらくためらった。 「……今はもう、大丈夫だけど。すごく辛かった時があったの。逃げたのよ、私。彼と、連絡取るのが嫌になって。自分の気持ちから目を逸らしたの」 右手で自分の二の腕をつかみながら、慎重に言葉を選んだ。有希を心配させたくなかった。 「この携帯は私が逃げた証拠。だからもう逃げないように、ずっと沈めたままにしておいてるの」 この二週間、ずっと沈んだままだった。見る度に、逃げ出した自分を思い出した。 「……彼のこと、吹っ切れたら捨てようと思うの。大丈夫よ有希、ちゃんと吹っ切るから」 恋はどんな風に終わるものなのか、彼の他に恋をしたことがない麻衣子には、わからない。本物の恋ができたかどうかもわからないまま。 それでもはっきりと、彼の答えは受けとった。 「ちゃんと決着はつけたから、前へ進めると思うわ。大丈夫」 自分に言い聞かせるように、麻衣子は言った。 「麻衣子の大丈夫は、全然信用できないわ」 有希はまた、泣きそうな顔をした。
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