#10 頬に触れる
最近気に入りの、膝下までのフレアなスカートの上に、いつものコートといつものマフラーを身につける。踵の低いいつもの靴を履き、マンションを出て、学校へと向かう。一年制の調理師専門学校だから、麻衣子はもうすぐ卒業だ。料理の腕はこの一年で格段に上がった。 電車に乗り、改札を抜ける。コンビニに立ち寄って雑誌を物色し、駅構内のコーヒーショップでサンドイッチを買う。 毎朝繰り返してもおかしくないような、何気ない動作に紛れさせて、今日も麻衣子は周囲の人物を確認する。わざわざ後ろを振り返ったりはしない。そんなあからさまなことはしない。 一名、ついてきているようだ。
クリスマスもお正月も麻衣子は女友達と過ごした。それが功を奏したのか、父の電話があった日から毎晩のようにマンション近くに停まっていた白いセダンは、正月休みが過ぎるとすぐ姿を消した。麻衣子についていた尾行も、ここ二三日は気配がしなかった。 だから昨日の夜彼に電話を掛けたのに、少し早まったかもしれない。 待ち合わせは午後一時。 彼はもう京都を発っただろうか。 麻衣子は新規契約した真新しい携帯をコートのポケットから取り出し、時間を確認した。まだ九時前だ。 目だけで電話ボックスを探したけれど、尾行されているのだからと思い直す。 彼の番号を押しているところを覗き見られでもしたら事だ。 今から取りやめにはできない。 麻衣子はいつもの道を通り、学校の自動ドアをくぐった。
始業20分前の教室には、迷彩柄のジャケットに黒いハンチングをかぶった、一人の姿しかなかった。 「おはよう。やっぱり、お願いすることにしたわ」 椅子に腰掛け、腕組みをして眠り込んでいるその友人に声をかけると、彼女はもぞもぞと身動ぎをしてから茶色のサングラスを外し、ねむそうな目を麻衣子に向けた。 「……おはよう。もう着替える?」 「後でいいわ。私、二限まで出てから抜けるから、そのときで」 「さぼり?」 「そうね」 友人はあくびをしながら立ち上がる。 「なんかこの後爆睡しちゃいそうだからさ、もう脱いで渡しとくよ。自分の着替えは持ってきてあるから」
同系統の、けれどさっきとは別の服を身につけて教室に帰ってきた彼女は、手に持った大きな紙袋を麻衣子に渡す。 「サイズは、多分大丈夫。身長同じぐらいだしね。ブーツだけは靴擦れするかも。鞄も取り替える?」 「……ありがとう。でも鞄はいいわ。ポケットに入る物だけ持って行くから」 「お嬢様も大変だね。変装しなきゃデートもできないなんて」 外したサングラスを麻衣子に渡し、友人は鞄から口紅を取り出した。 「コレついでに。よかったら使って。化けるよこの色は」 麻衣子はキャップを取って色を確かめる。 「紫?」 「変装するならとことんやんなきゃ」 そう言って、友人は自分の口元を指さした。
ジャケットに入っていたガムを失敬する。友人のおかげで、尾行は上手く撒けた。父や母が麻衣子のこんな格好を見たら、卒倒するかもしれない。彼との待ち合わせ場所に向かう途中で、すれ違う人の咎めるような視線に幾度か晒されたけれど、麻衣子は何とも思わなかった。 麻衣子が身につけているのは、麻衣子を表すものではない。尾行を撒くために、わざと自分からかけ離れた格好をしているのだ。道行く人が見ているのは、本当の麻衣子ではない。 だから道行く人にどう思われても平気なのだと、麻衣子は思った。自分でないものをいくら傷付けられたって、痛くなんかない。それはただの表面だ。たんなる殻だから。 自分を自分の意図するように、相手に認識させる。 装って、勘違いさせる。 殻は本当に便利だ。 殻をいくら傷付けられても、殻の中の麻衣子は、それほど傷つかずにすむ。殻は守るためにできるのだから。 麻衣子は、スタジアムで流した涙と、結婚式の後の自分を思い出す。 彼の前では、殻を剥がれる。殻は消えてしまう。だからあんなに傷ついたのだ。殻の中の自分だったから、守るものがなにもない、裸の自分を傷付けられたから。 この二週間の間に、麻衣子はいつもの自分を取り戻した。彼に会わない間に、殻は再生した。 きっと、彼の前では、殻を被れない。 麻衣子はたやすく傷付けられるだろう。それでも麻衣子はこれから彼に会う。 そう、二週間ぶりなのだ、彼と会うのは。ずっと電話もしなかったから、こんなに長く離れていたことがなかった。 これから彼に会って、勝負を終わらせる。殻の中の自分で、好きだと伝えて、ふられてしまうのはどれほどの傷になるのか、わからない。 それでも、嬉しいと感じている自分。 きっと、彼が好きだからだ。多分、彼に恋をしているから。 勝負を終わらせれば、もう二度と彼とは会えない。彼と会うのはこれが最後だ。 それでも。 麻衣子は待ち合わせ場所の近くにある電話ボックスに入り、藤村成樹に電話を掛けた。
「目的地は」 「あなたにお任せするわ」 「じゃあ軽くドライブといきましょか」 「これ、あなたの車?」 「いや、レンタカーや。今度はちゃんとオートマ車やで。しかもサイドブレーキなし」 運転しながら、彼は、そんなどこか懐かしいことを言った。では、赤が派手だという麻衣子の台詞を覚えていてくれたのだろう。彼がレンタルしたのは、水色の軽自動車だ。 麻衣子の頬が、ほんの少し緩む。 「昨日言っとった事情って、何やったん、お嬢」 彼が切り出した。 「面倒なことになったの。かなりね」 結い上げた髪を乱さないように麻衣子は黒のハンチングを外し、膝に置いた。自分はまだ殻の欠片を持って彼と話している、そう意識する。ずっと前から覚悟していたことだから、心のどこかで、傷つかないように守る準備ができていたのだろう。
ちゃんと、言わなければ。そのために会っているのだから。 麻衣子は自分からその欠片を投げ出した。 「だから、これ以上、勝負を続けられない」 「一体何があったんや。こないだのこと怒っとるんやったら、謝る。あれは俺が悪かった。やりすぎやった」 彼の言葉に胸を突かれる。傷付けたいだけの存在から、少しは変われたかもしれない。だから昨日の電話口の彼の様子がなんだか違っていたのかもしれない。 「違う。そうじゃないの。それとこれとは全然関係ないことよ。私の状況が変わったの。あなたとは、もう会えなくなるわ」 そう、もう会えなくなるのだ、もし変われていたのだとしても。 声が震える。 「父さんが。そろそろ、逃げられないみたい」 「……勝負はどうするんや」 「……大丈夫、ちゃんと終わらせられるわ。決着は、最初から、ついていたんだから」 麻衣子はひとつ息を吸って、ゆっくりと吐いた。 決定的な言葉は、さすがになかなか言い出せなかった。
彼は駐車場へとハンドルを切る。停車した車のエンジン音が静まった。 彼の方を見ることができないまま、麻衣子は口火を切った。 「最初は、あなたの姿が見られればいいと思ったの。ずっとあなたに会っていなかったから。ちゃんと直にあなたの姿を見れば、私のことなんか欠片もあなたの頭の中にはないって、思い知らされると思ったの。そうすれば、何かが、変わると思ったのよ。 まさかバックステージに呼ばれるなんて思ってなかった。心の準備ができてなくて、強がるしかなかった」 違う、本当に言いたいのは、こんな事じゃない。帽子を握りしめる。 「……お嬢?」 彼の訝しむような声にかぶせるようにして麻衣子は言った。 「私の負けよ。あなたが好き。中学の時から、ずっと好きだった」 「嘘やろ」 間を置かずに、そうきっぱりと返される。麻衣子は唇を噛んで、胸に湧き上がった感情を抑え込んだ。 「そうね、そう思うのは当然だわ。私はずっとあなたに嘘ばかりついてきたから。気持ちを隠してばかりいたから。でも、本当のことよ。嘘じゃない。今日は勝負を終わらせにきたの。もう時間がないから」 麻衣子はゆっくりと彼の方を見た。呆然とした顔に出会う。彼が戸惑うのはあたりまえだ。麻衣子が彼に本心を見せたことはなかったのだから。
敵意のない彼の瞳に、麻衣子は見入った。
彼も視線を逸らさなかった。
過ぎる時間が歩みを緩める。 見つめ合う、その時間が長く感じられる。
湧き上がる愛しさに、麻衣子は視線を揺らした。
「私はあなたが好きよ。あなたは私を、どう思ってるの」
「……俺は……、俺は……多分、嫌いなんやと思うわ」 彼は、言い惑いながら、そう口にする。
ああ、やっぱり。 麻衣子はゆっくりと瞬きをした。
これが彼の答えだ。大丈夫、受け止められる。 麻衣子は彼の目を見つめ直した。 「わかったわ。ありがとう」 不思議に穏やかな気分で、そう伝えられた。
シートベルトを外し、車から降りようとドアハンドルに手をかける。 「一体何なんやお嬢、これは勝負やったんか? 俺が好きなんて、嘘なんやろ?」 そう、彼に呼び止められた。 「嘘じゃないわ。嘘だったのはむしろ、あなたが知っている今までの私全部よ」 そのままの体勢で答えた麻衣子は、ふいに後ろからやってきた一台の車を凝視した。
全面スモーク張りの、白のセダン。
あのナンバーは。
尾行は撒いたはずなのに、どうやってここが。
いや、考えている暇はない。
「駄目。もう本当に時間切れだわ」 麻衣子は膝の上にあった黒のハンチング帽を彼の頭に目深に乗せた。 「被っていて。あなたは目立つから」 車を降りようとした麻衣子の右手首を彼はつかみ、引き留めた。 「お嬢、ちょお待ってくれ。意味わからん」 彼は麻衣子に触れている。 勝負のためでも、誤魔化すためでもなく、本心から、引き留めるためだけに、彼から触れているのだ。麻衣子は微笑みを漏らした。 「最後までお嬢って呼ぶのね、あなたは。 ……私も同じね、十一番なんて、呼んでばかりで」 これも、伝えておかなければならないだろう。麻衣子はシゲに体ごと向き直った。 「ごめんなさいね。ほかに呼びようがなかったの。あなたはずっと、佐藤成樹だったから。私にとっては、初恋の「佐藤」のままだったから。「藤村」なんて、どうしても、呼べなかった」 捕まれた右手を軽く持ち上げると、彼の手はするりと外れた。 麻衣子は自由になった右手を、ゆっくりと彼の顔まで持ち上げる。 指先だけ、そっと彼の頬に触れる。
もう二度と、彼には触れられないのだ。触れるような位置には、もう居られない。 最後に彼に言うべき言葉を、麻衣子は用意していた。 あなたの幸せを願っている。だからどうか幸せに。 それが、何もかも取り除いて残った、麻衣子の本音だった。
けれど。
もう指先だけでしか彼に触れられない自分に、暖かさすら感じないほど微かに、頬を掠めることしかできない自分に。 駄目なのだと、麻衣子は思った。
幸せを願うことは、無力感の裏返しなのだ。 幸せにすることはできない。そんな風に、直接関わることはできない。傍にいることはできない。 だからせめて、と。 遠くから見つめるように。 目を閉じて願うように。 手の届かないものに、祈るように思うのだ。 どうか幸せになって、私を安心させてください。私はなにもできないから、と。 なんて傲慢で、自分勝手なことだろう。 そんな、ブラウン管の中の彼を眺めつづけるような、悲しくてむなしくて、でも殻の中の自分が傷つくこともない、力のない祈りなんて。 姉とは血というつながりがあるから幸せを願い、間近に見守ることができる。何かあれば、手を貸すことだって、できるかもしれないけれど。 勝負を終えれば彼と麻衣子には何もない。 彼は、遠い人になる。 恋を諦めるということは、恋を吹っ切るということは、自分はもう相手の幸せさえ願えないのだと、願っていたとしても何もできないし、麻衣子が願うかどうかなんて、彼の幸せには何ら影響しないのだと、心から納得させられてしまうことなのだ。 彼の幸せは、彼が自力で手に入れるもの。麻衣子が祈っても、彼の手には入らない。 どれだけ胸が痛んだとしても、きっとそれが真実なのだ。
だから麻衣子は言った。
「さよなら、藤村成樹」
言葉の重みに震えながら。
「ちゃんと幸せになりなさいよ。きっと、望みさえすれば、あなたならいくらでも幸せになれるから」
麻衣子にできる精一杯。
勝者におくる、激励を。
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