#9 キスをする
「ブーケ投げるみたいやで」 「あら大変。行かなくちゃ」 「おう、がんばって来ぃや」 麻衣子は軽やかな足取りを心がけながら、ブーケ目当ての色鮮やかな集団へ合流する。 藤村成樹との会話を切り上げる口実があって良かったと、麻衣子は内心胸をなで下ろす。表情はいつもの自分を保ったまま、声色は変えてわざとらしい会話をするのは、難しいことだった。 水野に手を引かれながら、有希は壇上へのぼる。遠距離恋愛後というだけでも難しいのに、この後も二人は別々の国でサッカーを中心とした生活を送るのだから、今日の式は奇跡に近い。ブーケを持った有希は幸せそうだ。白いドレスがよく似合っている。 後ろ向きになってブーケを振りかぶる有希に、周りの女性たちが歓声を上げる。ブーケを手に入れれば次の花嫁になれる、そんなジンクスを麻衣子は信じてはいないし、花嫁になることが、幸せになることだとは限らないことも、よく知っている。 それでも麻衣子の視線は、放たれたブーケを追った。
妻にはなれない、傍で支えてはあげられないからと、プロポーズに頷けなかった有希。
そんな有希を説得するよう、わざわざ帰国して麻衣子に頼んだ水野。
お似合いだ。お互いを想い合って夫婦になる二人が、麻衣子には眩しい。
だから、ほんの少しだけ期待した。
「こない似合いのカップルから逃げ出すなんて、失礼な店員やなぁ」 「そう? 私は安心したわ。女の人ですもの彼女も」 「えーなに、やきもち? お嬢」 麻衣子は絡めた指に軽く力を込めて、軽く拗ねた顔を作った。 わかりきった嘘のつき合い。恋人ごっこ。 こんなことをどれだけ続けても、本物の恋人同士にはなれないだろう。何をしても彼は麻衣子を好きにはならないのだ、積極的に彼を落とせなんて、無茶なことを言う。彼はなかなか音を上げない。じっと耐えているのだろう。 麻衣子はこの状況をほんの少しだけ楽しんでいる。彼の誕生日の時だって、恋人ごっこはカモフラージュだったのだ。麻衣子の言葉にも態度にも、こっそり本音が潜んでいる。彼が終わらせなければ、ずっとこのままだ。 終わりの見えない恋人ごっこに、彼の疲れを覗き見た麻衣子は、何故か両親のことを思い出した。 父と母が家族ごっこを続けるエネルギーは、一体どこから来たのだろう。互いがこんなに疲弊する作業を、どうしてずっとずっと続けていたのだろう。吐き出さなければいられない程の想いを生んでまで、どうしてこんなわかりきった嘘のつき合いをしていたのだろうか、父も母も。 彼と絡めた右手にあたたかさを感じて。 母は父を愛していたのかもしれない、そう初めて、思い浮かんだ。 母は、表には出せない父への想いを、家族ごっこで紛らわせていたのかもしれない。今の麻衣子のように、ほんの少しの救いを、痛みの中に求めていたのかもしれない。 父もそうだ。 彼のように、耐えていたのかもしれない。耐えることで、母に応えていたのかもしれない。わかりきった嘘を、見て見ぬふりをすることで。 違うかもしれない。当たっているかもしれない。答えは出ない。両親は、麻衣子が聞いても本当の答えを返してはくれないだろうから。 「この後……」 足を止めた彼につられ、麻衣子も足を止める。 「なあに?」 彼は屈んで、内緒話をするように麻衣子の耳元に顔を近づけてきた。 微笑みながらも、麻衣子の思考はまだ両親のことに囚われていた。 だから、彼の言葉は、本当に寝耳に水だった。
「俺今日、披露宴あったホテル泊まるんやけど、そこのラウンジでちょっと飲まん?」
麻衣子を守る殻が一気に掻き消えた。
欠片すら、残らなかった。
こんな事態を、麻衣子は想像もしていなかった。
「いこか」 彼は麻衣子の手を引き、歩き出してしまう。 彼がこんなことを言い出す心配をしたことがなかった。麻衣子には考えつけなかった。 視界は酷く狭くなって、彼の背中以外目に入らない。足下の地面はぐらぐら揺れている。
うかつだった。 勝負を始めたときに、気付くべきだったのだ。 彼はもうちゃんと大人の男だ。 麻衣子があの頃のままだなんて、知るはずもないのだ。 何事もなく、お酒を飲んでさようなら、そんな解釈は、きっと甘い。このままついて行けば、恋人ごっこでは済まなくなる。 わざとあからさまに彼は言った。 このまま彼の後をついて行くのは、だから明確に、意思表示になる。 それ位は、知っていた。
彼は麻衣子を好きな訳ではない。彼にとっては、単なる勝負でしかない。
わかっている。それでも。
彼の手を振りほどけない。彼の温度を感じている右手を、本当は、振りほどきたくなんてない。 彼に引かれるままに、麻衣子は歩いている。
だからといって、彼と、そんな。
そんなはっきりした意思だってないのに?
彼は立ち止まりも、こちらを見ることもしないまま、ぐんぐん歩く。 このまま、彼が思い留まってくれるのを期待するのは、甘い。 それでも彼の手を振りほどけない。殻はどこにもないのだ、いつもの自分は消えてしまった。なにひとつ取り繕えない。 絡めた指先をほんの少し動かすことすら、麻衣子にはできなかった。
塞がれていた全てが解放される。ようやく唇から続く道が生まれて、空気が肺に舞い込む。 混乱の治まらないまま荒い息を繰り返す麻衣子の耳元で、藤村成樹が囁いた。 「あんまり慣れてるかんじせえへんな。ひょっとしてキス初めてなん、お嬢」 そういえば初めてだという認識と、今のは本当にキスなのかという疑問が、麻衣子の心に一緒に湧いてくる。 慣れているのは彼だ。だからこんなことをができるのだ。 好きでもない相手でも。面白半分に。 こんなに深く。
慣れてる、そう、いつもの自分なら。
麻衣子は一息に言葉をぶつけた。ずっとずっと彼に思っていたことを、彼の心の中をあばいて言い放った。 「安心しなさいな、さすがに初めてじゃないわ」 どうにか表情だけ取り繕って、麻衣子はホテルの部屋を出る。 ドアが閉まったとたんに、麻衣子の殻は残らず消える。とっさに被れたのが奇跡だったのだ。彼が麻衣子に、殻を思い出させるようなことを言ったから、不完全にでもなんとか被れたのだ。 ぼんやりと、視界がにじむ。深い絨毯につまずきそうになりながら廊下を進むと、誰かが立っていて、呆然とこちらを見ていた。
水野だった。
麻衣子は涙が溢れてきた目元に手をやる。 「彼には、言わないで」 すれ違いざまそれだけをなんとか口にして、麻衣子は早足で廊下を突っ切った。 こんなに涙もろくなんてなかったはずだ。泣いても良い場所にたどり着くまで、彼が絶対に来ないところへ行くまで、自分で涙腺を緩めるまで、ちゃんと泣くのを堪えていられたはずだ。 嗚咽がこみ上げるのを必死で堪える。息にできずに行き場をなくした感情が、涙に変わってどんどん溢れた。
麻衣子はタクシーに乗りマンションへと戻ると、額を冷たいドアに押しつけながら錠をし、乱暴にチェーンを掛けた。 ここは麻衣子の家だ。思い切り泣いても良い場所だ。泣こうと喚こうと、見ている人は誰もいない。 靴を脱ぎ捨て、部屋に駆け込む。中央に敷かれた青い絨毯に座り込む。 涙が止まらなかった。どれだけ下唇を噛んでも、唇の震えは治まらなかった。麻衣子は背筋を伸ばした。それでも止まらなかった。 麻衣子は正座をしてあごを引き、糸を張るようにぴんと背筋を伸ばし、白い壁紙を見つめた。 わかっている。ちゃんと受け止めなくてはならない。この感情は、麻衣子のものだ。麻衣子の中から生まれるものだ。逃げることはできないし、逃げてはいけない。受け止めなくてはならない。 部屋には、麻衣子の不規則な息づかいだけが響いていた。 淡白い電灯の色が変わらずにあった。 にじむ視界は何一つ変わらなかった。 いつまでたっても。
嫌いだ。彼が大嫌いだ。 彼に敵意を向けられ続けた中学の時と同じに、そんな思いがこみ上げてきた。 違う。わかっている。麻衣子は逃げているだけだ。それでは前には進めない。立ち止まったまま、停滞したままだ。立ち向かって乗り越えなければならないのだ。この痛みとも戦って、受け入れなければならない。 彼は麻衣子のことを好きなのではない。好きだからあんなことをしたわけではない。あんな風に、面白半分に。
嫌いだ、大嫌いだ彼なんて。 違う。麻衣子は彼の手を振りほどかなかった。自分でドアを閉めたし、ロックが降りても逃げ出さなかった。
彼の熱を覚えている。
彼の熱に震えた自分を覚えている。
こんなに痛いのに。こんなに苦しいのに。嫌いになれたら楽なのに、嫌いな振りさえ、もう、してはいけない。それでは前へ進めない。
彼が好きだ。 彼は麻衣子を好きにならない。 傷付けたいだけだ。
麻衣子は握りしめていた両手を床にたたき付け、土下座をするように突っ伏した。 は、と一気に息を吐き、ぐしゃぐしゃとすすり上げた。指が自然に広がり、絨毯の毛足を撫でた。腕ごと引きよせて、背中を丸める。
嫌だ。痛い。もうこれ以上、まっすぐ立っていられない。 麻衣子はバッグをひっくり返し、震える両手で携帯を包んで立ち上がり、リビングの端にある小さめの水槽の前に立つ。 着信履歴と、メール。彼との記録がつまっているのは、これしかない。 静かにたゆたっている水面の上で、麻衣子は両手をひらいた。携帯電話は泳ぐ魚の間を縫うようにして、ゆっくりゆっくり沈んでいく。 麻衣子は床にへたり込み、水底に達した携帯電話を眺めた。部屋の端まで絨毯は届かないから、むき出しの床は冷たい。体が冷えてゆく。 涙は収まったけれど、いつもの自分は取り戻せない。
これが恋だろうか。いくら逃げても、傷が消えないのが? いつもの自分を保てなくなるのが?
静寂を、高いベルの音が切り裂いた。 固定電話のコール音。 びくりとした麻衣子は、それでも立ち上がって、ディスプレイを見た。 実家からだ。一瞬で殻ができあがるのを、麻衣子は感じた。 深呼吸をしてから、受話器を取る。 「もしもし」 「今帰ったのか。今日はもう戻らないかと」 「友達の結婚式だったのよ」 父の言葉を麻衣子は途中で遮った。 「まだ日付が変わる前でしょう。大目に見て頂戴」 「麻衣子、今は大事な時期だとわかっているだろう。慎みなさい」 「十分慎んでいるわよ。何よ、そんなに気難しいの、次の見合いの相手は。狭量な男はご免だわ。いくらお金があっても」 「麻衣子」 名前だけを呼んだ父に、麻衣子は黙り込む。 「……よく聞きなさい。お前が以前見合いを抜けだした時の先方が、もう一度、話を持ってきた。言っている意味がわかるか?」 父の穏やかな声が聞こえる。 「……お断りに、ならなかったのね?」 「断るには惜しい相手だよ、麻衣子。何一つ申し分ない相手だ」 「私は逃げ出したのよ。向こうの顔を潰した筈よね。なのにどうして私なの」 「お前のことが気に入ったんじゃないのか」 嘘ばっかり、そう麻衣子は内心呟く。 多分、断れなかったのだ、父は。 母の実家関係か、会社絡みか。 何か、断れないだけのしがらみがあるのだろう。 「見合いを抜けだした私を気に入った相手なら、夜遊び位気にしないでしょうに」 「麻衣子」 揚げ足を取ると、父は珍しく焦った声を出した。 「いつまでもふらふらしてはいられないんだ。お前もいつまでも若いわけじゃない。覚悟を決めなさい」 「父さん」 「見合いはまだ先だ。日取りが決まったら連絡する」 一方的に、電話は切れた。麻衣子は呆然とした。あの父に、余裕がなかった。電話口でも感じられるほどに。 背筋が凍った。 本当に、断れない相手なのだ。先方より、むしろ父が。 この見合いを成立させないと、父が困る。いや、困るぐらいでは済まないのだろう、あれ程父が焦っているなら。 父は何が何でも麻衣子を相手と結婚させるつもりだ。あの父が、こんな電話を掛けてくるからには、なりふりなんて構わないだろう。 一瞬でできた殻が、一瞬で消え去る。 麻衣子は目をつむった。
終わりなのだ。次の見合いで、自分はもう。 期限付きだったのに。いつまでも続く勝負ではなかったのに。永遠に傷付け続けられるなんて、あり得なかったのに。なのに麻衣子は逃げ出した。 麻衣子は水槽を見やった。 彼からも、この感情からも、逃げ出したかった。泣いている理由一切を忘れてしまいたかった。 彼は麻衣子を好きにはならない。 終わりのあるものだとわかっていれば、麻衣子は耐えられるだろうか。痛みにも。 恋がなかなか本物にならなかった理由がわかった気がした。 忘れるために、諦めるために好きになるのでは駄目なのだ。それでは本物にはならない。 彼に好きになって欲しいと、心から望まなくてはいけない。殻を剥がれた、むき出しの自分で、そう願わなくてはならないのだ。好きになってもらえる見込みはないのに。可能性なんて無いのに、それでも。
麻衣子に足りないのは、なんだろう。 傷つく覚悟だろうか。 根性だろうか。 それとも、麻衣子のまだ知らない何かだろうか。
わからないまま、麻衣子は非通知設定のための3桁を付けて、暗記していた藤村成樹の携帯番号を押した。
本物の恋はまだできていない。 それでも期限は近付いてくる。
彼との勝負だけでも、ちゃんと終わらせなければならなかった。
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