#8 抱き寄せる
ホイッスルが試合に終わりを告げる。 藤村成樹のチームが勝ったのだ。 これから彼に会うのだと覚悟すると、体がしんと重みを増した気がした。
毎晩のように彼と話し、何度も彼と会った。なんでもないやり取りをくりかえし、ささやかなスキンシップを図る。彼に屈託のない笑みを向けられることもある。中学の頃とは違って、何かを隠す笑いかたを、彼はほとんどしなくなった。 ブラウン管越しにではなく、直接、彼を見ていられる。話すことができる。楽しいと思う。嬉しいと思う。思えば思うほど、痛いと感じる。彼に会うことが、どんどん怖くなってくる。 なら、告白すればすむことなのだ。 好き、その一言で、この勝負はあっという間に幕が下りる。 麻衣子はのろのろとベンチから立ち上がる。バックステージパスを確かめて、彼の元へ足を向けた。
好きだと告げれば、彼との勝負は終わる。でも、そんな逃げの告白をしたって、前には進めないという確信がある。 彼に再会してから、自分は何か変わっただろうかと麻衣子は歩きながら自問した。 彼が好きなのははっきりしている。でも、これが恋だと、言い切れるだろうか。恋じゃないと、彼が嫌いだと逃げることなく、心の底から。 ニセモノだった恋を、ちゃんと本物にできているだろうか。 更衣室前のベンチに座り、彼を待った。麻衣子は背筋を伸ばす。着物を着ていればあたりまえに伸びるけれど、洋服では意識していなければそうはならない。 あごを引き、正面をじっと見つめる。軽く下唇を噛んだ。 こうして意識していなければ、ふとした拍子に殻の中の自分が顔を出しそうになることに、麻衣子は気付いていた。 何故なのだろうかとまた、自問する。昔は破りたくとも破れなかったこの殻が、一体なぜ、今頃になって。 彼以外には見せたっていいのだ。事実、有希や姉や、数人の友達の前では麻衣子の殻はごく薄くなる。彼ほど殻を厚くしなければいけない相手はいない。見せてはいけないのは彼だけだというのに、その彼の前で殻を被っているのが難しくなってきている。 ドアノブが捻られ、彼が姿を見せる。麻衣子は緊張を顔に出さないように苦労した。
「二十三歳おめでとさん」 藤村成樹は開口一番、そう述べた。 「どうもありがとう。年を取っても、もうあまり嬉しくありませんけれど」 麻衣子は立ち上がりながら、わざとつれない返事をする。それが、麻衣子の殻だ。 「宣言どおり、勝ったものね。私もおめでとうと言うべきかしら?」 「ええって。お嬢が見に来るんやから、勝ちは決まっとったようなもんや」 「俺の勝利の女神様、ってか? あいかわらず気っ障な男やな」 顔立ちにどこかあどけなさの残る男の人が、彼の背後からぴょこりと顔を出した。 「はじめまして僕吉田光徳いいますねん、よろしゅうに」 手を差し出しながらの笑顔に、麻衣子はフィールドでのプレーを思い出した。 「背番号9の吉田選手ですよね。存じております。今日のシュート、見事でしたわ」 握手をする。印象とは裏腹の、がっしりとした感触が麻衣子のてのひらにあった。 この人になら、殻を被っていられなくなるなんてことはないのだけれど。 「おーおー藤村、また呼んだのかよ」「こんにちはー、お名前は? シゲより俺に乗り換えません?」「きれいなお嬢さんやないかい。やりよるな藤村」 チームメイトが次々現れ、次々に話しかけてくる。麻衣子はまごつきながらもなんとか答えを返す。大勢に囲まれている麻衣子に、彼は近づいてきた。 「あーもー、邪魔やジャマ」 突然、肩を抱き寄せられる。 麻衣子は彼の胸に収まった。 彼の腕の堅い感触と、剥き出しの肩に触れている、彼のてのひらの温度。 頭が真っ白になり、何も考えられなくなる。 「俺のなんやから手ぇ出すな。ほれ、散った散った」 一瞬遅れて頭に伝わる、彼の言葉の意味。 ほんの一言で、彼は麻衣子の殻を叩き割った。
なんて自然に嘘をつくのよ、思ってもいないことを、こんな風に抱き寄せながら、どうして、そんな。 至近距離で聞こえた彼の声が、耳の奥でじんじんとこだまする。 麻衣子は、湧き上がった感情をやり過ごそうとした。 普段の自分を思い出せ。 『あなたの所有物になった覚えはありませんわ』 そう彼の目を見て言えばいい。 それが麻衣子だ。 普段の自分だ。 殻を、被らなくては、はやく。 彼の胸から抜けだして、彼の温度も振り切って。
麻衣子の体は動かなかった。動かないことに、麻衣子は驚いた。 だってもう少しだけ、こうしていたい。 このまま。喜びと痛みを、このまま。
涙が出てきた。
大勢が麻衣子の顔をじっと見ているのがわかった。それでも涙は止まらない。大丈夫かと、声を掛けられた。 「大丈夫、ちょっとお化粧直してきます」 麻衣子は、彼の胸から逃げ出した。
ベンチの鞄を拾い上げ、化粧室へと駆け込む。 たったあれだけの事で。 わかりきった嘘を、抱き寄せられて、言われただけで。 中学の頃に比べれば、これぐらいは何でもない。大丈夫のはず。
そんな風に、麻衣子は割られた殻を繋ぎあわせる。 鏡に映る自分を見つめる。自分の頬を流れ落ちる液体が信じられなかった。 泣いたのは、いつ以来だろう。
これは、恋だろうか。この無様な姿が。 答えは出ないと知りつつ、麻衣子は自問した。
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