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もうずいぶんと待たせてしまっていると、麻衣子は腕の時計をちらりと確認した。卒業式の後、後輩の子たちと、記念写真を撮る約束をしていたのに。
待ち合わせ場所はたしか、校門の前。
既に十五分も遅刻だ。
卒業生でざわめく廊下を早足で突っ切りながら、上条麻衣子はポケットの中を探った。
小さな丸いボタンが指先に触れる。
さっき佐藤茂樹に押しつけられた第二ボタンだった。
このボタンを、どうすればいいだろう? 
麻衣子は迷った。
式が終わって、彼と会って、そしてあんな終わりだった。
なんだかすっきりしない。
どうすればよかっただろう? どうすれば、きっちり「終わった」と麻衣子は思えたのだろう。実感がない。最後なのに、あれは最後だったのに。
例えば、彼に好きだと告げて、振られてしまえば、踏ん切りをつけられただろうか。

「上条麻衣子先輩」

フルネームで呼び止められたのは、そんな考え事をしながら歩いているときだった。
振り返る。トゲのある声ソプラノから予想していたとおり、女の子。それも、三人。
一人は泣いていて、その一人を庇うように二人の女の子が立っていた。
麻衣子はふう、と軽くため息をつき、ポケットから右手を抜き、腰に当てる。
「あらはじめましてお嬢様方。三人も揃って、何のご用ですかしら? まあ、大方予想はつきますけれど」 
麻衣子が敵意を持って絡まれるのは、大抵はアイツが原因なのだから。
一番気の強そうな子が、胸を突きだしながら口火を切る。
「シゲ先輩が、『第二ボタン上条先輩にあげる』って言ってたって聞いて。確かめに来たんです。本当ですか?」
「ええ。ついさっき貰ったわ」
「どうして上条先輩が貰うんですか?」
「どうしてって?」
「この子、シゲ先輩に告白して、第二くださいって言ったのにだめだったんです」
その子は、背後の泣いている子を目で示して続ける。
「なのにどうして上条先輩が貰うんですか。上条先輩って、シゲ先輩のこと、別に好きでも何でもないんですよね?」
「そうよ」
「なら受け取っちゃいけないんじゃないですか? シゲ先輩のことホントに好きで、この子みたいに泣いてる子、いっぱい居るのに」
麻衣子は、彼女の半歩後ろにいる、泣いている子を見た。縮毛矯正をかけたのだろう、胸元まである黒髪はまっすぐで、人工特有のツヤがある。

たとえば、今泣いている彼女のように、彼に「好きだ」と告げればよかっただろうか。
そして振られてしまえば、きっぱりと終わらせることができていただろうか。
彼女みたいに、泣くことができていただろうか?

「だって、」と麻衣子は言葉を泣いている彼女に向けた。
「私は佐藤が大嫌いだけれど、佐藤にどうしても貰って欲しいって言われちゃ、しょうがないでしょう。でも、あなたが欲しいなら差し上げましょうか?」
麻衣子はポケットからボタンを取り出し、彼女に示して見せた。
「な、何よ、それ……っ」
プライドを刺激されたのか、泣いていた彼女は、涙を止めて、肩を怒らせる。
「そんなのいらないわよ!」
「本気で佐藤が好きなんでしょう? なら、私から譲られるとかそんなの関係なしに、好きな人の第二ボタン欲しいって思えないものかしら?」
あんな形で佐藤に貰ったボタンにせよ、嬉しかった。嬉しいと麻衣子は思ってしまった。
だからすぐに捨ててしまいたかったのに。 
「それで本気? 聞いて呆れるわね」
反論が言葉にならないのか、彼女は唇を震わせると、また泣き出した。
最初に麻衣子に食ってかかった子が、泣いた彼女を庇うように彼女の肩に手を回し、麻衣子を睨むと、最低、と囁くように言った。
「佐藤先輩が、どうしてあなたを選んだのか、私、わからない!」
泣き声混じりに、佐藤を好きだという彼女が叫んだ。

自分のことを好きな娘には、彼、興味ないのよ。

言ったって今更。今日は卒業式だ。

「私は押しつけられただけ。文句なら、佐藤に言って」
冷たく言って、麻衣子はボタンをポケットに戻す。
「……ひどい女」
彼女の隣にずっと付き添っていた、今までひと言も喋らなかったもう一人の女の子の呟きが聞こえる。
「あら、今頃気付いたんですの?」
今日でもう卒業ですのに、馬鹿も極めれば愉快ですわね、と嗤って言って、麻衣子は踵を返した。
泣いていた彼女は、佐藤を好きだと言った彼女は、麻衣子をひどく憎むに違いない。
怒りや憎しみをぶつける相手が居るうちはまだ幸せなのだと、彼女はいつか気付くだろうか?

歩き出すと、ギャラリーの視線が痛かった。
みじめになろう、と麻衣子は思った。
この子や、他の子たちや、麻衣子の噂を聞いた誰もが、麻衣子を責める位、酷い女になるのだ。
もっと情けなくなって、もっとぼろぼろになって。
そうでなければ麻衣子は泣くこともできない。
泣くことすらできないのなら、彼を忘れることも、きっとできない。

昇降口に辿り着き、ひとり靴を履き替えた。

外は熱も寒くもない、丁度良い気温で、あのとき、窓から眺めた様子そのままの、絵に描いたような春だった。

てのひらの中で再度、彼のボタンを転がした。

捨てても、捨てなくても、その意味は変わらない。そう、佐藤は言った。
"佐藤が麻衣子に第二ボタンをあげた"という事実は変わらない。
たしかに、変わらない。
麻衣子がこのボタンを捨てようが、持っていようが、佐藤が
"麻衣子に、最後の嫌がらせとして、人気者である自分の第二ボタンを押しつけた"
という事実は、変えようがない。

泣きたい、と、思った。
もう人前では泣けないとも思った。
空が青かった。
桜が咲いていた。
麻衣子に関係なく、両方とも、ひどく綺麗だった。
麻衣子は、ああ、わたしはひとりだ、と思った。
それはあたりまえだ。
誰もがひとりなのだろう。
気付くか、気付かないかの違いがあるだけで。

校門を出る直前、一度だけ、麻衣子は振り返った。
桜の樹に囲まれたグラウンドの白茶けた砂、校舎の煤けた白。
よく晴れた空には白い雲が浮かんでいる。
セーラーと学生服の黒、その胸にはそろって赤い造花があるけれど、表情は人それぞれだ。
さよなら、と、呟いた。
涙を流す代わり、誰にも気付かれなように、ひっそりと呟いた。
ひときわ強く風が沸き立つ。
無数の薄紅の点が一斉に舞い踊り、景色を乱しながら、ゆっくり地面に落ちていった。
残されたのは、さっきと変わらない景色。でも、この風景は今日かぎりのもの。
麻衣子はかすかに微笑んだ。
さようなら。
もう一度呟くと、目の前をひとひら、花びらがよぎった。
麻衣子は思わず視線で追う。
ふわりふわりと風に揺られ、落ちかけては何度も吹き上げられ、その行方はなかなか定まらない。
麻衣子様はやく、と後ろから声がかかった。一緒に写真を撮ると約束していた麻衣子の後輩の取り巻きの子たちが、校門前に立っているのが見えた。
諦めて、その花びらに背を向け歩きだす。
あのひとひらの桜は、流すことができない涙のように思えた。
その行く先は、麻衣子は知らない。
でもきっと、地面に落ちて、腐って朽ちて、それで終いだ。
それでいいのだと思った。
この気持ちも、きっといつか。
いつかきっと地に落ち、腐って、朽ちる。
てのひらを握りしめ、その感触を確かめてから、ボタンを地面に置いた。
胸に感じる痛みだって、大丈夫。いつかは朽ちる。
背筋を伸ばす。
不敵に笑う。
待っていた二人に麻衣子はようやく追いつき、校門をくぐった。
「お待たせ。写真、撮りましょうか?」

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「じゃあお嬢さんがたも元気でな。はい次の方〜」
列を成すファンをさばきつつ、佐藤成樹は笑みを作る。
こういったサービス精神は、どちらかといえばある方だ。

昇降口を出るなりの『一緒に写真取ってください』コールに気前よく応えている最中、「ねぇ、ちょっとシゲちゃん」と声をかけられ、シゲは視線をうつした。
わりとよく喋る同学年の娘が、握っている拳を緩く開いて、中にある物をシゲにだけ見えるように覗かせた。
学生服のボタン。
内緒話をするように彼女に耳を近づけると、案の定。
ひそひそ声でその娘は、「上条さんがさっき地面に捨ててっちゃうの見たんだけど、コレ、シゲちゃんのでしょ?」と言った。
「……そうやな、多分」
「ねえ、コレ、どうするの?」
「好きにしてええで。持ち主不在やし」
じゃあ貰っちゃお、と軽く言ってその娘はボタンをしまい込んだ。
「おう、ちゃんと大事にしてやー」
そんな風にシゲが発した言葉には、口先以上の意味は無かった。シゲにとっては誰にあげたかが重要なのであって、上条麻衣子が持っているのでなければ、誰が第二ボタンを持っていようが、どうでもいい。
……いや、正直言って少し、残念だった。彼女がずっと持っていてくれる訳がない。そう思ってはいたのだが。
卒業してしまえば、彼女に会う機会はそうそうないだろう。もしかしたら、二度とないかもしれない。
彼女は、シゲを忘れるだろう。
シゲは、彼女の去っていったであろう方角を見遣った。
偶然、校門の間から、道を歩いて遠ざかってゆく上条麻衣子の後ろ姿が覗いた。
まっすぐな彼女の背中。
すぐに見えなくなった。
――一瞬だけ、寂しさに似た感情で、胸がいっぱいになる。
……今日で卒業やしな。感傷的になるんも、まぁ、しょうがあらへん。
ため息に似た吐息を吐き出したちょうどその時、シゲの眼前に、桜の花びらがひとひら飛び込んできた。
「おっ、」反射的に目を閉じると額に軽い衝撃があって、そこに衝突したとわかった。
右手で額を探り、くっついていた桜を指先で摘み取る。
まじまじとその姿を見る暇もなく、その薄紅の花びらは、一際強く吹き上がった風に乗り、青空へと吸い込まれていった。

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「佐藤、何やってるのよ。早く片付けないと、引っ越し屋さん来ちゃうでしょう」
シゲが振り返ると、髪を結い上げて腕まくりをし、仁王立ちをした彼女が後ろに立っていた。
「懐かしゅうて、見とったんや」
シゲは言い訳をしながら、膝上に広げたアルバムを指し示す。
「何? 中学の写真? 卒業式じゃない」
卒業式の時、シゲがファンサービスとして撮った写真の一枚だ。律儀にシゲの分を焼き増ししてくれた子がいたのだ。
シゲと女の子の集団が中心に大きく写っている写真、その端っこをシゲは指し示した。
「この背中、誰やと思う?」
校門の前に立っていて、後ろ姿と横顔だけが小さく覗いている髪の長い女の子。
「わからないわ。誰?」
「麻衣子や」
「え、私? 嘘」
シゲの膝上に屈み込み、開かれたアルバムをまじまじとよく見る彼女。
「うーん、そうかしら? 髪の長い女の子ならいっぱいいたじゃない」
「お嬢やって。俺覚えとるから、間違いないで」
あのときの彼女の後ろ姿は、今でも脳裡に焼き付いている。
「ファンサービスの写真撮影会の後で貰ぅた写真に、お嬢の後姿が写っとるんやもん、驚いたわ。で、とっといたっちゅーわけやな」
「あなたが言うと、嘘っぽいわよ」
「嘘やないって」
本当に、偶然に移り込んだ写真だったのだろう。アップで写ったシゲ達のずっと後ろの校門前で、だれかと写真を撮っているのか、数人並んで囁き合っている、そんな写真だった。
貰ったとき、シゲは思わず写真を繰る手を止め、その一枚だけは、無くさないようきちんとアルバムに挟んだのを覚えていた。中学時代の上条麻衣子の写真は、部の集合写真と卒業アルバムのものを除けば、シゲには一枚もなかった。
嘘じゃないというシゲのセリフを、信じているのかいないのか。彼女は、懐かしそうに言った。
「佐藤、覚えてる? あなたに貰った第二ボタンのこと」
「勿論。結局お嬢が捨ててった事まで、ちゃーんと覚えとるで」
「そうだったかしら?」彼女は、笑顔で言った。
「今考えると、勿体ない事したわね。確かに、プレミア付きそうですもの」
「そうやろ?」
シゲは、自分の隣の床をトントンと叩き、彼女をそこへ座らせた。
「ま、ボタンはもう無いけどな」
シゲは麻衣子の手を取った。
その薬指にぴったりとはまった、細いリング。
「なによ、心配しなくても、捨てたりしないわよ」
すこし照れたような顔をして、彼女が言った。
「そうやでー、今度こそちゃんと持っててや?」
「……馬鹿ね」
彼女が浮かべた、最近よく見せるようになった柔らかな笑みに誘われて、シゲは彼女の頬に手を伸ばし……たのだがその手は虚しく叩き落とされた。

「懐かしいからって、寄り道してたら終わらないじゃないの。さっさと片づけるわよ、佐藤」

機敏に立ち上がる彼女に、佐藤って、いつまで呼んどるん? 思わず聞きそうになったが、まあ、あとほんの少しの間だろう。
忙しく働く、華奢な背中を守るべく、シゲは膝上のアルバムを閉じ、あの頃にしばしの別れを告げた。



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