中学最後の夏休みに、補習? 何の嫌がらせ? 冗談キッツいってそんなもん。
しかも1教室に45人もぎゅうぎゅう、ときた。
クーラーなんて文明の利器も勿論、ない。
ぺこっぺこっと音をたてつつ、下敷きで扇いでも扇いでも、油蝉の鳴き声のせいで、暑さは三割り増し。
今は夏。真っ盛り。
熱視線
あちー、と舌を出しながら、シゲはぼんやりと黒板を見ていた。が、英語のスペルはさっぱり頭に入ってこない。
サッカーで食っていくつもりのシゲに、勉強する気はさらさらない。
それでもサッカー部の顧問・夕子ちゃんの補習とあっては、サボるわけにもいかないのが悲しい所だ。
『じゃあ次の問題。いくわよー。He (be) watching dogs.この()内のbe動詞は、何形になるのか』なんて元気な声が教室中にこだまする。
教室で多分一番元気な人物、夕子ちゃんの声であっても、英語なんて念仏と同じ、右から左へ聞き流してしまう。
きっとシゲと同士の補習常連者も同じだろうと、隣の席に目をやる。
はたして、そこに居たのは。
両腕を机の上に組み、枕代わりにして、突っ伏している黒髪の少女――上条麻衣子。
……つまり堂々と居眠り中。
このクソ暑い中よう眠れるわ、と思う。
二人の机と机の間は、手を伸ばせば届く位にしか離れていないのだから、体感温度は一緒のはずなのに。
まとわりつく湿気。
首周りがべたつく、嫌な感覚。
眠気なんか湧く余地もない。あるのはただ倦怠感。
シゲは開襟シャツの襟元を左手ではためかせ、首元に風を送り込みながら、涼しげな彼女を改めて見つめた。
夏の日差しに映えるセーラーの白と、その袖からするりと伸びた腕の、違った種類の白。
机の横に垂れている、細くしなやかな黒髪を、窓から入ってくる風が、ゆっくりと揺らしていて――その髪は触れると少し冷たく感じられる筈で、シゲはその触感をすでに知っていた――更に、時々強めにかかる風圧が、長い髪に隠された彼女の横顔を覗かせる。
すっと通った鼻筋とか、ふっくらとした唇とか、伏せられた睫毛だとか、そういったものが色々、途切れ途切れに、不規則に、シゲの目に届く。
何かを試すみたいに。
……暑い。
じわじわと吹き出した汗は、シゲの首をゆっくりと伝っていく。
その感覚はサッカーで生じたものと違って不愉快で、拭う気も起きない。
汗はそのまま、襟元から胸元へと落ちてゆく。
寝息にあわせて緩く上下する、彼女の背中のラインから、華奢さと柔らかさを同時に見出して……――
「ちゃんと聞きなさいよ佐藤成樹!」
名指しの怒鳴り声で、我に返った。
黒板の方を見遣れば、腰に手をあてている香取夕子先生(英語担当)が、シゲを睨んでいる。
夕子ちゃんはシゲの隣の、ぐっすり眠り込んでいる上条麻衣子をちらりと見て、にっこりと(怒気を込めて)笑った。
うわ、やな予感。
「佐藤君、今言った、問2の質問の答えは?『What is he watching ?』」
「いやあ、えーと……」
シゲが口ごもっていると、夕子ちゃんは帰国子女の完璧な発音で、こう言った。
「Miss Kamijho ! ―――あなたもいい加減に起きなさい!」
そんなタイミングで、チャイムが鳴った。
教室が一気にざわめく。夕子ちゃんが青筋立てたまま、『今日はここまで』とかなんとか言っている。
こりゃ後でお説教やなと覚悟をかためているシゲに、背後から声がかかった。
「シゲお前、よだれ垂れてるぞ」
「うっそマジ」
慌てて口元に触れて確かめる。別に濡れていない。
声の聞こえてきた方角、後ろの席を振り返ると、サッカー部の同輩ジャッキーのニヤニヤ笑いに遭遇した。
「お前なー、何言うねん」
「別に良いだろこれぐらい。香取先生怒らしたらどうせ俺も説教喰らうんだぜー『サッカー部連帯責任』とかで」
マトモな理由だが、ニヤニヤしたまま言うので、なので、別の意味でからかっていると思ったシゲが口を開く前に、
「だって眠かったんだもの。しかたがないですわ」と寝ぼけ声が響いた。
もちろん、上条麻衣子である。
「いつの間に起きとったんや、お嬢」
もしかして、今のやり取りを聞いていた? どこから? と焦ったシゲが問うと、
「先生に大声で呼ばれれば、嫌でも起きますわよ」
「そりゃそうだろ」ジャッキーが混ぜっ返す。
おいジャッキー俺がずっとお嬢を涎たらして(いや、たらしてないけど)見てたなんてばれたらまずいんやっちゅーねん、わかっとるんか、わかってやっとるんやなジャッキーあとで覚えとけ。
と思いつつ、なんとかごまかそうとシゲは口を開く。
「涎は垂らしとらんで、俺」
「私だって垂らしてないわよ! 寝てたのは佐藤も一緒なんでしょ、馬鹿にしないでくださる?」
と、彼女は高飛車に、でも微妙に恥ずかしそうに黒髪に手櫛を通す。
……そうか、そうきたか。勘違い万歳。
「お嬢と一緒にせんといてや」
と、理由はなしに言っておいた。
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短い休み時間が終わり、チャイムが鳴る。
喧噪が落ち着き、また補習が始まる。今度は数学。
隣を見やれば、今度はきちんと黒板を見て集中している上条麻衣子の姿がある。
汗ばんだ様子はなく、涼しげだ。
さっきの嫌な汗を飛ばすために、シゲは再び下敷きを手に取った。
ぺこっ、ぺこっと音をたてながら、情けなく顔を扇ぐ。
さっきの汗の一滴、その辿った軌跡の部分だけ皮膚は冷えて、伝っていった汗の存在を主張する。
……せやから、暑いんやっちゅーねん。
毒づいたところで季節は夏。
暑さはしばらく収まりそうにない。
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