彼の浮気を知ってから、麻衣子は彼と出会ってからの日々をよく振り返った。
恋が駆け引きだというのならば、麻衣子はどこで間違えたのだろうか、と。
中学の頃から始まった恋。 最初に追いかけはじめたのは彼の方で。
逃げるのをやめ、立ち止まったのは麻衣子。 けれど、麻衣子が立ち止まれば、彼も立ち止まってしまって。
また麻衣子は逃げて、彼は追いかけて。
立ち止まって、立ち止まり合って、何度も何度も。
そうして互いに相手の心を捕まえられないまま中学を卒業して、そのあと二年、「恋愛」というにはあまりにも曖昧な鬼ごっこを続けた。
続けた結果が、彼の浮気だ。
麻衣子は一体どこで間違えたのだろうか。
だって、麻衣子が逃げ続けていても鬼ごっこは終わらなかったのだ。
だから立ち止まったのに。
それとも、逃げ続けていれば、中学の時から一度も立ち止まらなければ、今でもまだ、彼は一途に追いかけ続けてくれていたのだろうか。
麻衣子はメールを返さなかった。電話にも出なかった。
彼に会うこともしなかった。
……そうするうちに、彼に会うのが怖くなった。
「麻衣子、追いかけなさいよ」
いつの間に傍にいたのか、有希がドアを見つめたまま立ちつくしていた麻衣子の肩を叩いた。
「そうやって、いつだって素直じゃないのよね。麻衣子はさ。本当にそれでいいの? こんなチャンス、二度とないわよ」
「でも」 「本当に、二度目はないわよ。チャンスは一度きり。そういうものなの」
有希は人差し指をつきだす。 本当は麻衣子だってわかっているのだ。
あの人がどんなにプライドが高い人か。
それなのにわざわざ麻衣子に会いに来る、ということが、どんな意味を持つのか。
二度目はないってことだって、ちゃんと。
「まあ麻衣子がアイツなんかもうどうでもいいって言うならさ、あたしもお節介焼いたりしないけど。まだ許せない? 五年前のこと」
「違うの」 麻衣子はゆっくり首を振る。
まだ彼を許せないから、追いかけられないんじゃない。
違うのだ。
五年間、ずっと彼を避けてきた理由。
怖かったのだ。
会ってしまったら、声を聞いてしまったら、その瞬間に許してしまいそうだった。
浮気ではなくて、彼がたとえ相手の女の子に本気だったのだとしても、許してしまいそうだった。
一番じゃなくてもいいから私のことも好きでいて、なんて、言い出してしまいそうだった。
怒ることも、もう二度と浮気はしないなんて約束を欲しがりすらせずに、縋りついてしまいそうで怖かった。
だからずっと、そんな自分を、許せなかった。
「追いかけなさいよ」
顔だけで振り返り、麻衣子は有希にむかって「だって」と言った。
有希は顔を斜めにして、眉尻を上げる。 「後悔したいの?」
あたしは全部お見通しよ、とでも言いたげに、有希は麻衣子の背中を押す。
よろけて2、3歩前に進んだ麻衣子は、立ち止まってから胸元で両手を合わせ、ぎゅっと握りしめて呟いた。
「許せるようになるまで、5年かかったのよ」
責めることもせず、簡単に彼を許してしまう自分を、許せるようになるまで。
それほどまでに彼を好きな自分を、許せるようになるまで。
彼の後を追いかけてしまう自分を許せるようになるまでに。
麻衣子は小走りでアンティーク調のガラスのドアに近づき、真鍮のノブを捻る。
外へと隙間が空いた途端、秋雨が蝶番の軋む音をかき消した。
そのままドアを押し開け、外を見る。
彼の背中は見えない。金の髪も見つけられない。
コンクリートを叩く水音は耳に痛いぐらいで。
滲んだ街灯の明かりだけが、暗闇に浮かんでいた。
麻衣子はゆっくりため息をついた。
中に戻る気にはなれなかった。
外に出て、後ろ手にドアを閉め、そのまま目を閉じる。
つま先に、滴が当たる感覚があった。風があるせいで、庇では遮りきれなかった雨が、足下まで届くのだろう。
素足を刺す冷たさは罰のようだ。
ミュールを履いてきて良かったと、ふと思った。
「何落ち込んでるん?」
突然耳元に落ちた声にはっとして振り返る。ドアを開けると死角になる、ドアの影だった場所に、彼が立っていた。
「……どうして?」
彼を見上げて呟く。
アンティーク調のガラス戸越しに漏れてくる光が、柔らかく彼の髪を染めている。
彼は、麻衣子の方は見ないままに答えた。 「……雨が強くて、な」 「雨宿り?」
「そうやな。お嬢は」 「……雨宿り、かしらね」
答える間にも容赦なく雨は降りしきり、麻衣子の足下を濡らしてゆく。
その足枷にも似た冷たさ。
「雨、止まへんな」 「そうね。この調子じゃあ当分止まないのじゃない」
「どうせなら濡れて行こか、一緒に」 「馬鹿?」 「馬鹿かもしれん」
彼は息を吐きながらレストランの壁にもたれかかると、あごを少し上げて壁面に後頭部をこつんと寄りかからせた。
「……俺、もう、馬鹿なことせんわ」
馬鹿なこと、が、五年前の事を指しているのだということが、彼の口調でわかった。
「5年も許して貰えんのは、さすがにしんどい」 「……ずいぶん素直ですこと」
麻衣子が語尾を震わせると、彼は壁に寄りかかったまま視線を投げてよこす。
目が合って一秒としない間に、麻衣子は視線を逸らし、うつむいた。
あのまま彼の瞳を見つめていたら、なんだか正気でいられなくなりそうだった。
秋雨が、音をたてて足下を叩いている。
けれど、不思議と冷たさは感じない。
彼の足下も相当濡れているのだということに、麻衣子はそのときようやく気付いた。
「なあ、お嬢」 彼の声が振ってくる。 「送らせてもらえん?」
「……私が頷くと、思う?」 彼を見ないまま、言葉を紡ぐ。
「思う」 静かに言って、彼がてのひらを目の前に差し出した。
体中が熱くなる。 それは、困ったことに、酔っているせい、ではなくて。
それでも彼の手を取ってしまう自分を、今なら許せると麻衣子は思った。
end
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