突然現れた彼に気付いた周囲が、ざわつきはじめた。
世間の知名度だけで言うならば、水野より風祭より、この会の主役である有希よりも高いのだ。有希の友人知人ばかりのこの中に、彼のことを知らない人間はまずいないだろう。
ざわめく周囲に気を取られる様子もなくただあたりを見渡していたあの人と、一瞬視線が交わった。
まどろむような感覚。
やっぱり、酔っている。
意外にも、彼は真っ直ぐに近付いてきた。
戸惑いながらも麻衣子は表情をうかがう。その面に、笑みはない。
目の前に立ち止まった、あの頃と同じ金色の髪の持ち主は、あの頃よりも背が高いのだと気付く。
「お嬢」 あの頃と同じ呼び名を、あの頃よりも低い響きで彼は呼ぶ。
「久しぶりやな」 なんとか笑えた。いや、笑えただろう、と麻衣子は思った。
「……そうだったかしらね」 麻衣子の発した、心とは裏腹のセリフに、彼は軽く両肩を上げた。
「お嬢に振られた男やで。それとももう忘れてもうた? 俺のこと」 「さあ、どうかしら」
彼は首の後ろに右手をやり、ひとつ息をつく。
彼の、やけにゆっくりした瞬きや、目の逸らし方が、落ち込んでいるように見えてなんだか落ち着かない。
麻衣子はまた、一口ワインを飲み下す。 「お嬢ももう酒飲める年か」 「大分前からね」
「2年ちょい前から、やな」 「……知ってるなら、わざわざ聞かないでくれるかしら」
「確認しただけやん」 「確認して、何になるって言うのよ」
「そういう何気ないことの積み重ねなんやって、コミュニケーションって」
「あなたにとっては、でしょう。私は意味のない会話は嫌い」 「じゃあちゃんと言おか」
彼は笑みを浮かべた。
「今みたいに、話せたらええのにって、ずっと思っとったんや。お嬢はあの後、会ってもくれんかったからな」
そう、会わなかった。この人が来る集まりに、麻衣子は絶対に顔を出さなかった。
「京都(あっち)での浮気がお嬢にバレて、それっきりや」
それは、遠距離恋愛を初めてから二年が過ぎた頃。 彼がプロになってすぐのできごと。
「まさか言い訳すら聞いて貰えんとは、さすがに思っとらんかった」
そう、聞かなかった。何度かかってきても麻衣子は電話に出なかったし、彼がわざわざ京都から訪ねて来たときだって、麻衣子は結局、玄関の鍵を開けはしなかった。
その彼からの一方的な連絡も三ヶ月ほどでなくなって、そのまま五年の月日が過ぎたのだ。
彼は口の右端を少し上げる。 「今なら聞いて貰えるか? あん時の言い訳」
「言い訳ってことは、事実なんでしょう。なら今更、何を言うことがあるっていうの」
ぶっきらぼうに答えたのに、彼はなぜか綻ぶような笑顔を見せた。
「お嬢、懐かしいわーそのセリフ」 彼はいたずらっぽく目を細める。
「『京都に行くのはもう決まっているんでしょう、なら他に何を言うことがあるの』てお嬢が昔、言うたことあったやろ」 そのセリフなら、麻衣子も覚えていた。
中学三年の時、彼が京都の高校に行くという話を聞かされて、麻衣子はそう答えて彼を突き放した。
もう七年も前のことなのに、なぜこんなにはっきりと思い出せるのだろう。
そう答えたときの彼の驚いた顔や、口元だけで笑って「さよか」と言った彼の口調や。
突き放した態度でそう言った時の自分の本音まで一緒に。
本当は、離れたくなんてなかった。
「そういう目で、見んでもらえるか? 妙な気分や」 「妙?」 「……期待しそうになる」
期待するって何を、とか、そう言う目ってどういう目、とか、麻衣子は聞かなかった。
聞かなくても判る。 そういう目をしている自覚は、なくもない。
でもそれはただ単に、酔っているから。 麻衣子はそう思いたかった。
「目つきひとつで何が判るっていうの? ばかばかしい」
皮肉げに言って視線を逸らし、ワインを一口飲み下す。揺れる赤い液面がほとんどを占めている麻衣子の視界の端には、口元だけで笑う彼がいる。
「相変わらず、きっついな、お嬢」 彼は、さりげなく麻衣子の手からワイングラスを取り上げた。
「何よ」 「もう酒は止めとき」
そう言って彼は、ワイングラスを、麻衣子の手から取り上げたワインを、ためらいもなく傾けた。
「ずいぶん甘いワインやな」 「……ちょっと」 「なんや?」
軽く聞くけれど、周りのギャラリーが一瞬息を呑んだことに気付かないほど鈍い男ではないのだ。
なんだか試されている気がした。 「……なんでもないわ」
「ふうん? お嬢にしては珍しくはっきりせんな」
間近のテープルにグラスを置く彼を無言で軽く睨むと、彼はほんの少し目を細め、瞬きをしてから言った。
「お嬢、この後送らせてもらえん? 5年前のお詫びに」 「……私が頷くと思うの」
「思わんけど、俺、勝負師やから。勝ち目がなくともやってみる方なんや」
軽い口調だったけれど、彼の目の色は麻衣子の奥底を覗き込むように深くて。
「……無駄よ、そんなこと」 彼と目を合わせたまま、麻衣子はやっと返事をした。
「……さよか」 口元だけで、彼は笑った。 きっと、失望を感じるたびに、彼はこんな風に笑うのだろう。
笑うだけでお終い。 「……あなたは」
何も変わっていないわね、と続けかけた時、マイクを通した有希の声が響いた。
どうやら終わりの挨拶らしい。 「そろそろお開きみたいやな。もう行くわ」
彼はアンティーク調のガラスのドアを見遣った。 「まだ有希に会っていないでしょう?」
少し慌てて聞くと、 「小島ちゃんに会いに来たんやないし、かまへん」
麻衣子に一瞥をくれて、彼は歩きだした。 本当に、何も変わっていない。
プライドが高いくせに、変に潔いのだ。 麻衣子は逡巡した。
彼を呼び止めようか、追いかけようか。
両方できないでいるうちに、彼はドアを開け、秋雨の降る外へと体を滑らせる。
蝶つがいの軋む音と共に、彼の金色の髪はドアに遮られて見えなくなった。
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