放課後の教室。 真夏のグラウンドが覗く窓を背にして、彼女は立っていた。 彼女の目の前、彼女から一歩だけ離れた距離に、俺は立っていた。 彼女は、黒い瞳をシゲに向けていた。 その視線は、見つめるというよりは、睨む、に近かった。
「そないじっと見られたら、やりづらい」 「だって、」
瞬きもせず、真っ赤な顔をしたままの彼女が、一つ息を吸ってから言葉を紡ぐ。
「何か、するつもりでしょう」 「そりゃ、何かはするはな。さっき宣言したやん、ちゃんと」
シゲは彼女の黒髪の先を指先でつまみながら言った。
「『キスしてもええ?』って」
バリア・ロス
「観念したんやろ、逃げんってことは」 口調だけ冗談めかして問えば、彼女は強い視線を保ったままびくりと体だけを揺らした。
図星、と心の中で呟く。
一年近くも続けてきた鬼ごっこは、いつだってシゲが鬼。
それでも、逃げの一手だった彼女がシゲを意識していることを、シゲはずっと知っていた。
黒髪をつまんだ右手はそのまま、左手を伸ばして彼女の背後に回した。
その左手を避けるようにして背筋を反らせた彼女は、シゲが左手で引いたカーテンの音に、またびくりと体を揺らす。
「っ、なんでっ」 「……見られるやろ、外から」 窓と彼女との間にシゲが引いた白いカーテンは、外から二人の姿をきれいに隠してくれるはずだ。髪をつまんだ右手とカーテンを引いた左手で彼女を挟み込む形になったシゲは、にやりと笑う。 「何よ、どうせからかってるんでしょ」 「本気やって」 「……直前でふざけるに決まってるわ」 「お嬢、目ぇ」 閉じて、と言うと、彼女はさらに赤くなったが、瞼を閉じる気はないようだ。 「……絶対、いたずらするもの」 「仕方あらへんな」 シゲはひとつ息をついて、髪を手放した右手で彼女の両目をゆっくり覆う。 彼女は、不思議と体を揺らさないままシゲの目隠しを受け入れた。 てのひらに彼女の体温を感じる。 きゅっと閉じられた唇。 瞳の見えない彼女。
なんてこった。しくじった。
シゲは唐突にそう思った。
そう、無防備なのだ、彼女が瞳を隠すと。 シゲが何をしようとも、いつものようにすぐに抵抗したり逃げ出したりはできない。 一瞬遅れる反応は、シゲのアドバンテージのはずだ。 それなのに。
無防備な彼女に喚起された、「衝動」。
沈黙の長さを不思議に思ったのだろうか、彼女の睫毛が動くのをてのひらに感じる。 シゲはそっとてのひらをどけた。 彼女の黒い双眸があらわれる。 強い視線に晒されて、シゲの「衝動」は少しだけ和らいだ。 彼女の瞳を見つめたまま、シゲはゆっくりと上体を折って顔を近づける。 吐息のかかる距離。そして二色の髪が交わる距離に。 彼女は堪えきれなくなったように睫毛を震わせながら、目を閉じた。 ぶり返してきた「衝動」をシゲは苦笑いで押し殺し、そのまま体を進めた。 このまま彼女に触れてしまえばきっと何かが変わる。 後戻りはきかない。
「逃げ出したい」。
顔を離し、瞼を上げた。 シゲよりも遅れてばちっと目を開けた彼女は、瞳を隠していないのに、無防備だった。 彼女の唇が、なにか言いたげに少し緩んで、閉じる。 「今日はこんくらいにしとこか」 笑って言うと、 「馬鹿!」 と彼女はシゲを押しのけた。 「先、練習行きますわ!」 手の甲で口元を押さえ、彼女は走って教室を逃げ出した。
今までずっと追いかけていた筈の彼女の背中を、突っ立ったまま見送ったシゲは、軽く笑って頭を掻いた。
実を言うと、かするようにして初めて触れた彼女の唇の、感触どころか熱さえ、シゲは覚えていなかった。
反対に、あの「衝動」が生々しく残っている。
あれが本音だろうか、自分の。
逃げていた彼女に立ち止まられた途端に。 捕まえた、という確信を得た途端に。
「……難儀なこっちゃ」
呟いて、シゲはふと思った。 追いかけ続けた自分と、逃げ出すことばかりしていた彼女。
けれど、逃げていたのは、手に入れるのを怖がっていたのは、どちらだったのだろう。
一年近くも続けてきた鬼ごっこは、いつだってシゲが鬼だったけれど。
一方的に追いかけながらも、逃げ道はちゃんと残して、決定的に追い詰めるのは先延ばしにして、気持ちを確かめ合うことを怖がっていたのは、本当は……
「難儀なこっちゃ」 もう一度呟いて、教室の窓に引かれていた白いカーテンを引き、外の景色を眺める。
目をやられそうな強い日差しの中、彼女はグラウンドへと駆けていった。
「……いっつも、スカートなのに思いっきり走りよるよなぁ、お嬢は」
全力で、真っ直ぐに走る彼女に、シゲの顔は自然とほころぶ。
感覚として覚えていなくとも、シゲは確かに彼女に触れた。
今までと同じではない。何かが変わるだろう。それでいい。
案外、臆病だった自分に気付かされたとしても。 それでいい。
今は夏だ。
シゲは鞄を肩にかけ、教室を後にする。 廊下を抜け、薄暗い昇降口で靴を履き替え、外へと足を踏み出す。 真夏の太陽の下に体を晒すと、再会したとたんに真っ赤に変わる彼女の顔を見るのが、とても楽しみになった。
end
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