ステップアップ/// site top / text index



ステップアップ



 朝、裸で目覚めてため息をひとつ。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、脱ぎ散らした服をあからさまに視界に入れる。夜に受ける印象と違い、気恥ずかしさよりだらし無さが先に来るのが、朝日の威力のすごいところだ。
 時計を確認し、もう時間がないと麻衣子はそっとベッドを降りた。彼に押し倒されるときは、死んでしまう、か、死んでもいいと思う程に掻き乱されるのに、目がさめた時にあるのは生活なのだ。
手早く服を着て、ベッド周りを軽く片付け、顔を洗うため洗面所へ向かう。
東京にいる麻衣子に逢いに来るときや、テレビや雑誌の取材に便利だからと、シゲがこのアパートを借りてから、三月ほどになる。シゲに押し切られるようにして、洗面用具や簡単な着替えを麻衣子も置いているのだが、洗面所に歯ブラシが二本並んで立っているのを見るのは、麻衣子にはいまだ見慣れない光景だった。
 キッチンに入ってエプロンをした。白米を研いで早炊きし、前来た時に置いていった、日保ちのする野菜と、冷凍庫のソーセージを使ってスープを作る。同じく冷凍していた鮭の切り身を軽くレンジし、バターを敷いたフライパンでムニエルにする。時間を見る。そろそろ彼を起こさなければ。寝室のベッド上で目覚ましを抱いて寝ているシゲの顔を叩く。
「シゲ、遅れるわよ!」「まだ眠い…」「いいから起きて、シャワー浴びて!」「ええ−…あーなんかええ匂いする」「食べたかったら起きるの!」
 しぶしぶ起き出した彼をバスルームに押し込んで、麻衣子はキッチンへと戻った。レンジで溶かしたゼラチンと果物の缶詰を混ぜて、アルミバットに流す。深さは浅いから、冷蔵庫へ入れれば食事が終わる頃には固まるだろう。テーブルに食器とスープを並べていると、ご飯が炊き上がった。時計を見る。まだ少し余裕がある。ヤカンで少量お湯をわかし、乾燥ワカメを戻してスープに添える。後はコーヒーでも、と更にお湯を沸かしていると、彼がシャワーを浴び終えてでてきた。
「腹減った」
バスタオル一枚の彼が言う。
「服を着て来てからよ」「お嬢、厳しい−」「当たり前でしょ。甘やかしたら、後が大変だもの。中身はおかかしかできないけど、おにぎりはいる?」「2個、海苔つきで」「わかったわ」
 小分けパックのかつおぶしに醤油をたらしておかかを作っていると、彼が着替えて寝室から出てきた。ご飯をよそい、彼が箸を付けたのを見て、またキッチンに戻る。ゼリーを見ると固まっていたので、手早くスプーンで掻き取り、ガラスの器に盛り付けた。ヤカンの笛が鳴る。麻衣子はコンロの火をとめ、ゼリーをテーブルに持って行きながらシゲに聞いた。
「コーヒーは?」「飲む。ブラック、ホットで」「ご飯、お代わりは?」「頼む。飯旨いで、お嬢」「ありがと」
お代わりをよそって、麻衣子はコーヒーをいれる。カップの上にサーバー、フィルターと重ね、冷蔵庫から取り出した粉豆を量り入れて、ヤカンから三回に分けてお湯をゆっくりと注いだ。いい香りがキッチンに漂う。
「麻衣子ー、スープお代わり貰うでー」リビングからの声に、「どうぞ!」と答えてから、麻衣子は魔法瓶に残ったお湯を注ぐと、コーヒーをテーブルに届けた。シゲの前に置かれた食器の中身はあらかた片付いている。相変わらず、食べるのが早い。
「量、足りなくない?」「ちょうどやで。よく有り合わせのモンで、こんだけ作れるよな」「ありがとう。お代わり、もういい?」「おう、ごちそうさん」
彼はスープを飲み干し、ゼリーの入ったガラスの器を手にとった。食べ終えた食器類をまとめてシンクに持って行き、余ったご飯でおにぎりを握る。海苔を巻いてラップに包んでいると、空になったガラスの器とコーヒーカップを持ってシゲがキッチンにやってきた。
「まだ時間あるさかい、食器洗うで」「いいから、準備してて。京都まで行くんだから、忘れ物したら大変よ」「せやかて、いっつも悪いやん…あ、お嬢」「何?」「顔にごはん粒ついとる」「嘘」頬を触る麻衣子の逆側の頬にシゲはキスをして「うっそ〜」と言った。
「シゲ!」
「あはは、スマン」
シゲはキッチンを出て、麻衣子の言った通り準備を始めたようだ。おにぎりをハンカチで包み、玄関に置いていると、シゲがバッグを担いで玄関先にでてきた。
「お嬢は飯食わんの」「あなたを見送ったらね」
大学の授業は2限から。食事をしてからでも余裕で間に合う。
ふと、シゲが困ったような表情で麻衣子のウエストを触った。
「ちゃんと飯喰いや?もうちょい肉つけんと、おもいっきり抱けん」
「朝っぱらから、何言ってるのよスケベ!」
「そうやなくて。安心して子供産ませられんってこと」
腰にまわってきたシゲの手の甲を麻衣子はつねる。
「子供――って、いきなり何言ってるの。寝ぼけてるの?」
「すっきりバッチリ目覚めとるで?」
しぶしぶ手を引いたシゲは、ふざけているとは思えない調子で続けた。
「なあ、お嬢」「何?」「そろそろ結婚しよや」
麻衣子は固まった。
「何、いきなり」
「今かて同棲してるようなもんやんか」
「そんなの、たまにでしょ。っていうか、まだ学生じゃない」
「お嬢はな。俺はもう社会人三年目やもん。自活しとるし、お嬢一人位余裕で養えるで。学生は結婚しててもできるやろ」
「それはそうだけど、世間から見れば、早いでしょう」
「ハタチ越えたら、早くなんかあらへん。今度、指輪買うてくるさかい」
「そんな急に言われても…ほら、早く!新幹線遅れるわよ!」
どうせ、出掛けのどさくさに紛れた戯言だ。
そう割り切って、アパートの玄関からシゲを押し出した麻衣子に、シゲは振り返って、閉じかけた扉を押さえながら言った。
「俺、ちゃんと言うたからな。今度会うときまで、返事考えといてや」
放心している麻衣子の唇にキスをひとつ。
驚きに目を見開いたまま麻衣子は、シゲの背中を見送った。

麻衣子は、シゲの姿が見えなくなってしばらくしてから部屋の中に引っ込んだ。
……こんな所で、ぼおっとしている場合ではない。朝はやることが山積みなのだ。
この後は、軽く食事をして、洗い物を片づけて。本当は、シーツの洗濯もしたい。ああ、そういえば明日はゴミの日だ。すっかり生活感が染み付いてしまっている。情けないことに。
そう考えて、ふと気付いた。
……確かに、結婚してもそれほど今とかわりない生活を送ることになるのかも?? 
毎日あちこち飛び回るシゲがアパートに来る回数は限られているのだし。そう、もしも結婚すれば、生野菜も玉子も牛乳もない、バランスの偏った朝ごはんをシゲに作ることも無くなるし、部屋だって掃除もなにもかも済ませて、最高の状態にしてシゲを迎えられるし――

 麻衣子はしばし考え、時計を見て、結局結論をさきのばしにした。だらだらと考えている時間が朝はない。なにしろ、朝は忙しい。
 
 手早く朝食を胃に詰め込み、キッチンの後始末をして、麻衣子はアパートを出て鍵を掛け、駅へと歩いた。歩きながら、シゲが部屋を契約した時から渡されていた、手の中にある合い鍵の意味を少しだけ深読みして、麻衣子は首を傾げる。
 結婚……この年で、結婚?
 聞いたことがない。知り合いでは、大概が20代も後半になってからだ。
 思えば彼とは長い付き合いで、真剣な付き合いだと思っているし、彼もそう思ってくれていることを知ってはいるけれど。
 こんな風に彼のアパートに泊まった翌朝は、彼と生活を共にしている実感もある。多分、結婚したからといって、今と特に何も変わらない。日々やることも、彼を思う気持ちも。
 そう考えれば、プロポーズを断る理由はない。でも結婚と言えば一つ大きなハードルだ。軽々越える決心はつかない。
 それに、朝のどさくさで言い出したことなのだ。シゲにしたって本意かどうか知れない。今度会ったら、忘れてるかもしれないし……そうなったらなったで、悲しい気もするが。

 深く考えないでおこう。それが、麻衣子の出した結論だった。  
 電車に乗って窓辺を見遣れば、春の気配が木々に表れている。また始まる一年に、麻衣子は思いを馳せる。
 次にシゲが東京に来た際、指輪を挟んで押し問答になるとは、今はつゆ知らぬ麻衣子であった。



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