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 約一週間後の日曜日。
「すみませんでした!」
と、勢いよく頭を下げたのは、みゆきだ。
先日のお詫びにと、ケーキの美味しいカフェに誘われてのことだ。
「やけ酒呑むのに付き合ったくらいで、大げさよ。それより、ちゃんと吹っ切れた?」
麻衣子は言った。
「はい、おかげさまで大分スッキリしました……って、違うんです! そのことは勿論、申し訳なかったんですが、お詫びしたいのはその事じゃなくて」
みゆきは、ちらりと目線を上げ、不安げに麻衣子の顔を見ると、目を逸らして赤くなった。
「その、あの……、もしかしたらなんですけど、間違ってたらすみません、麻衣子先輩、あの後、シゲ、先輩と、その……」
麻衣子の表情を見て答えを判断したのか、途中で言いよどむと突然頭を下げ、
「本当、申し訳ありません」
と、真摯な声で言った。
麻衣子と佐藤が、あの後でどういうことになったのか、みゆきは知っているのだ。
「いいのよ、あなたに謝られることじゃないわ。飲む量セーブできなかったのは私ですもの」
結局自分の責任よね、と麻衣子は紅茶のカップを持ち上げた。

 聞いてみると、みゆきは、事の顛末を、電話が掛かってきた後から麻衣子の様子がおかしかった事と、『先日迷惑を掛けたお詫びに』と水野家にお菓子を置いてきた後、その礼の電話で水野が漏らした『迷惑なのはシゲだよ。今度という今度は本気で呆れた。いや、ゴメン、なんでもない』という言葉から推測したらしい。
聞いて、そう、と麻衣子がため息をついて言った時に見たみゆきの顔色は、悪いと言ってもいいくらい白く、表情も強ばっていた。
大丈夫? と思わず聞きそうになった麻衣子に、「大丈夫ですか?」とタイミングを合わせたかのように逆にみゆきが聞いてきた。
「こんな事、聞いて良いことじゃないかもしれませんけど。でも、先輩、今までお付き合いした方はいらっしゃらないって、仰ってましたから」
「……そうね」と麻衣子は少し笑った。
「その時の記憶も全然ないし、酔ったせいで起こった間違いってことで、終わらせられればよかったんだけど」
みゆきが、ごくりとつばを飲み込んで言った。
「……終わらせられないですか」
「あの馬鹿が、要するにあの馬鹿がね、……その、」
言い淀んだ麻衣子をみゆきは手で止める仕草をし、
「いえ、いいです。言わなくても分かりました。水野先輩の言ってたことの本当の意味も今、わかりました」と言った。
すみませんと繰り返すみゆきに、あなたのせいじゃない、と何度も言ったが彼女の気は済まなかった。
「だって、私が自棄になって目茶苦茶に飲むから先輩も付き合って飲んじゃったんじゃないですか、先輩が飲み過ぎたの、そのせいじゃないですか」
今にも泣き出しそうなみゆきを、麻衣子は、まだ結果は分からないんだからと言って宥めた。

 およそ一週間前、佐藤成樹に言われたばかりの時ならばともかく、今では結果を待つしかないと、麻衣子もいいかげん肝が据わった。
毎日かかってくるお気楽な佐藤からの電話がその助けになったと認めるのは、かなりしゃくに障るが。

 それよりも、と麻衣子は相談する口調でみゆきに言った。
「わからないわ……どうしてあの人あんなに割り切ってられるの? 普通、こういうのって、男の人だって焦るものなんじゃないの?」
「そうだと思いますけど、でもシゲ先輩って何考えてるのかよく分からない人ですし」
「そう? 私は中学時代に苛められた記憶しかないけど」
まあ、貴方を送るのが佐藤にならなくてよかった、ショックな事があった後でそんなのってやりきれないものね、と麻衣子が笑って言うと、
「あの、もし私を送ってくれたのが水野先輩でなくてシゲ先輩だったとしても、麻衣子先輩みたいな事にはならなかったと思います」
とみゆきは言った。
「あなたが風祭を好きだから、ってこと? 油断しちゃだめよ。女の子なら誰でも良いってかんじじゃない、あの人。軽くて」
みゆきは納得しかねる、というように軽く首を傾げてから言った。
「実は私、中学の時、シゲ先輩って麻衣子先輩のこと好きなんじゃないかと思ってました」
「嘘」驚いて言った。
「だって、好きな子ほど苛めたいって言うじゃないですか。からかうのも気がある証拠ですよ」
「……それは聞いたことあるけど、まさか」
 麻衣子は当時の記憶を探った。彼の態度の中に、麻衣子への好意を示すようなものがあっただろうか? 
 髪を引っ張られたり。
 下手なプレーをからかわれたり。
 テストの点数をばらされたり。
 泣き顔をからかわれたり。
彼が、麻衣子を好きなんじゃないかなんて、疑ったことは一度もなかった。
「風祭先輩の応援に行ったとき、偶然シゲ先輩に会った事、何度かあるんですけど、麻衣子先輩どうしてる、とか聞かれたりしましたよ。彼氏はできたのか、とか、結構詳しく」
「それは、話のついででしょ。久しぶりにあった時なんて、共通の知り合いのうわさ話はいい話の種なんだから」
「そうですか? そんな感じもしなかったですけど……」
と、あくまで納得がいかない様子のみゆきだったが、その話はそこで打ち止めになった。

 次の日、佐藤が東京に来る用事があるというので、会うことになった。
身支度をし、そろそろ家を出ようかという矢先に、母が帰宅した。
「お帰り、今日は早かったのね」
「仕事が一山越えて、今は谷間なの。でも、それもあと2〜3日ってとこね」
不満げに鼻の上をくしゃりと歪ませる母だが、実際は仕事に生き甲斐を感じているのだと麻衣子は知っている。
「ねえ麻衣子、今日夕ご飯どこかに食べに行かない?」
せっかく仕事早く上がれたし、久しぶりにフレンチでも、という母に、「ごめん、先約があるの」と謝る仕草をした。
「まあ残念。誰と?」
「……あの、みゆきと」
あらぁ、と言って、母はなぜか悪巧みをするように笑った。
「今、妙な間があったわね」
「ないわよ」
「もしかして、デート?」
「違うわよ」
「隠さなくてもいいじゃないの! ねぇ、デートなんでしょ? よく見ればお洒落してるし」
心底楽しげな母に聞かれて、麻衣子は曖昧に頷いた。
これはデートではない。
デートではないが、万が一、のことを考えれば、彼氏が居ると思われていた方が事は上手く運ぶかもしれない。色々と。

そのうち紹介しなさいよ、という母の声を背に玄関を出た。なんだかどっと憂鬱になった。

夕食代は佐藤の奢りだというから、ちょっと値の張るイタリアンに入った。そう言えば、みゆきの酒席代も、ホテル代も、麻衣子は支払っていないと、この時初めて思い出した。何でもかんでも奢られるのは、相手の財布を当てにしているようで麻衣子の主義に反するのだが、そういったことを今更言い出すタイミングでもない。
素直に美味しく奢ってもらい、外に出る。
「なあお嬢、そろそろわかるんちゃう?」
「そうね、そろそろ」
いつもなら、もうすぐ生理が来る頃だ。
体を重ねたのは一度きりだ。可能性は高くないはず。
それでも、もし、来なかったら?
麻衣子は視線を上げ、彼を見た。
本当に、この人はどうして落ち着いていられるのだろう、と思った。
もし子供が出来ていて、麻衣子が産みたいと言ったなら、自動的に責任を取らされる立場なのに。経済的にも精神的にも縛りができ、自由が利かなくなる。結婚は地獄の入り口と確か誰かが言っていた。
そうなっても構わないと考えているとしか思えない。
何年ぶりかで会った女に、しかもただの元チームメイトに、そこまでする理由があるだろうか。
頼むから堕ろしてくれ、と言うのなら、まだ分かるのだけど。

 佐藤が足を止めたので、麻衣子もつられて足を止めた。
あちこちにチェーン展開している、ドラッグストアの真ん前だ。
「何か買う物でもあるの?」
「うーん、用意しておいた方がええかなぁ、思て」
「何を?」
「ほら。薬局で売っとるやん。結果が分かるやつ」
入る? と背中を押されて麻衣子は赤くなった。
「何言ってるのよ、恥ずかしいじゃないの!」
「そうかぁ? そこまで気にすることやあらへんやろ。結婚してると思って行ったらええやん」
「あなたが行きなさいよ!」
「えー俺一応有名人やもん。スクープされたら困るしー」
「うだうだ言ってないで、さっさと買ってきてよ!」
「へいへい。一ヶ月経ったらな」
宥めるように、佐藤は麻衣子の手を取った。
麻衣子の怪訝な顔に答えるように、「一週間やそこらじゃ、まだ分からんやろ」と言うと、麻衣子の手を引っ張って歩きだした。

 ちらちらと笑みを含んだ視線が二人に向けられているのがわかった。
さっきのやり取りはけっこう大声だったので、そのせいだろう。
「なぁ、俺らって、どう見えるんかな。周りから見て」
「……そんなの、どうでもいいわよ」
手を繋いでいる照れもあり、つい、つっけんどんになる。
「恋人同士に見えるやろか」
「……知りませんわよ、そんなの」
「お嬢は素直やないなぁ。そーいうとこ、可愛いけど」
「……恥ずかしいから、言わないでいただけます?」
「何を?」
「……可愛い、とかよ」
佐藤が麻衣子を振り返り、くしゃりと笑って言った。
「せやかて、可愛いもんは可愛い」
その言葉は本心からで、全くウソがないと、どうして分かってしまうのか。
麻衣子は落ち着かない気分になる。
「……バカ」
それだけようやく言うと、佐藤は聞こえないふりをしながら、ちらりと視線だけ寄こした。
困った、と麻衣子は思った。
出来ていなかったらいい。選択は簡単だ。
でも、もし、出来ていたら――
本当に、どうしよう?

結論を出すのに迷ってしまう。
迷いが生じる、ということが、実ははっきりと自分の意志を表しているのだと、麻衣子はその頃にはちゃんと気づいていた。
……本当に、どうしよう?

 それから、やっぱり一週間ほどしてから、麻衣子ははじめて、自分から彼に会いたいと告げた。
電話口だったから彼の表情はわからないけれど、多分驚いた様子で、彼も頷いた筈だ。
時間をやりくりして、次の日、東京に来てくれることになった。

「今日は報告があるの」
駅近くの喫茶店。
麻衣子は運ばれてきたアイスティーには口も付けずに言った。
「来ました」
「何が」
「……だから。」
麻衣子は佐藤を手招きした。
小声でささやくように言うと、佐藤は真面目な表情で麻衣子の顔を覗き込んだ。
「……ホンマに」
「ええ。ちゃんと、来ましたから。それだけ」
電話で言ってしまってもよかった内容だが、麻衣子はちゃんと会って言いたかった。
「わざわざ呼び出すのも悪いと思ったんだけど、それじゃ、なんだかけじめが付かない気がして」
一旦言葉を切って、アイスティーを一口飲んだ。シロップを入れていないから、ちょっと苦い。
「ですから、忘れて、何もなかったことにして下さる?」
「お嬢はそうしたいんか?」
「あなただって、」麻衣子は一旦言葉を切ってから言った。
「何年ぶりかで会った同級生の事なんて、どうでもいいでしょう?」
「俺はお嬢の事覚えとったで。ずっと、忘れたことなんかない」
言葉の勢いに、麻衣子は視線を上げて彼を見た。
「お嬢は忘れとったかもしれへんけど」
自分で言った台詞に、傷ついた表情になって彼は続けた。
「ホンマに、忘れたことなんかあらへんし、これからだって、忘れられん。無理や」
彼はアイスコーヒーのグラスに伸ばした手を途中で止め、拳を握って言った。
「この三週間、めちゃめちゃ楽しかった」

麻衣子は押し黙った。
楽しかったのは、麻衣子も同じだったからだ。
そう、麻衣子だって、忘れたりしていなかった。
中学時代。佐藤成樹といたあの頃のことは。

 髪を引っ張られた。
 下手なプレーをからかわれた。
 テストの点数をばらされた。
 泣き顔を笑われた。
 部活を引退してからも、毎日のようにからかわれた。
 校舎ですれ違うたびに、何を言われるか、何をされるのかと身構えた。
 彼が視界に入らない日は、ほとんど無かったのに。
 中学を卒業して、彼は京都に行ってしまって。
 麻衣子も大学までエスカレーター式の、私立の女子校に入学して。
 それきりだった。
 麻衣子が、彼のいない日々を寂しく思ったとしても、彼との接点は途切れてしまって、もう無かったのだ。

「お嬢、今、彼氏居てる?」
とんだ質問だ。麻衣子は首を振った。
「なら、これも何かの縁かもしれんし。付き合うてみるんも、悪くないんとちゃう? 駄目やったら別れればええだけの話やし」
彼を見上げた麻衣子の目を不誠実そうな笑顔で捉えて、彼は言った。
「ま、お試し期間継続ってことで」
「……そういうことなら、もう少しだけ付き合って差し上げますわ」
麻衣子は言った。
その直後、少し照れてしまった。
麻衣子が答えた途端、彼が、本当に嬉しそうに笑ったからだった。

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「最近彼女が出来ましたー(はあと)」

アンダー代表の飲み会の席上でそんな事を言い出したシゲを、水野はヘッドロックで拉致して部屋の隅に移動した。
「お前、まさかとは思うけどな」
「何や?」
「……上条のこと、騙したか?」
にや、と彼らしい不穏な笑いを浮かべた、彼のその表情が答えだった。
水野は大きくため息をついた。
「あのなぁ……絶対、やり過ぎだぞ、お前。犯罪だ」
親友の問題児っぷりに、水野は頭を抱えたくなった。
酔って前後不覚になった隙を突いて、中学時代の同級生に手を出す。
水野の感覚からすれば、それでも十分問題なのだが、状況としては理解できるし、話にも聞くことだ。
けれど。
既成事実があった、と騙した上で、彼女に予防を失敗したと思わせ、不安にさせて、自分を頼らせることで、確実なきっかけをつくる。上条麻衣子が男慣れしていないからこそ成立する作戦だが、そんなこともあらかじめみゆきから聞き取って計算尽く、というあたりが狂気の沙汰だ。
「どうしてわかったん? タツボンにはわからんようにやったつもりやったけど」
「俺の意見じゃない」
「ふーん、誰の意見なん? 口止めせな」
一転真面目な顔になって言われ、水野は軽く体を引いた。
「おい、本気で怖いぞシゲ。なんでそこまで、中学ん時から会ってもいない上条に執着してるんだよ。いきなりすぎるだろ」
「いきなりって言われたかて、なぁ。もう、いいかげん判ってもうたってだけなんやけど」
「何が」
「他の女じゃ、お嬢の代わりどころか、気ぃ紛らわしにもならんって事。暇つぶしにはなるけど、それならファンサービスに時間割いた方が絶対オトクやし?」
「はあ?」
「要するに、多分俺はこの先もずっと、お嬢が忘れられんなぁって判ってしもうたって事や」
「中学の時、お前ら付き合ってたか?」
「そんなことあらへんで。ダチだったかどうかも怪しいもんや」
「……じゃあ初恋?」
「ってんなわけあらへんやーん、俺の初恋は3歳ん時、相手は婦警さんや!」
どうや! と威張るシゲは軽く無視して、
「中学から引きずってるって? お前が? 信じられねぇ」
と水野は言った。
「でもみゆきちゃんかて、ずっとカザのこと好きやったんやんか」とシゲは口をとがらす。
「お前はずっと、上条に会っても居ないだろうが」
「会わんでも忘れられへんかったから、こんな状況になっとるんやないかい」
シゲは軽くむくれる真似をし、それからため息をついた。
「……高校からは京都に行くーゆうこと、中三になる前から決めとったからな。告白せんかったんや。高校離れさえすればお嬢のこと吹っ切れるって、タカくくっとったんやけど、6年経ってもこのザマや」
はは、と投げ遣りに笑ってシゲは続けた。
「卑怯でも姑息でも、使える策は全部使わんと。簡単に落とせるようなお嬢様やないけぇな」
「6年もか……」
シゲお前意外と純情だったんだな、と一瞬水野は騙されかけたが、すぐ我に返って言った。
「だったら! 紹介してもらうとか、もっとちゃんとした手がいくらでもあるだろうが!」
「そういういつでもできる堅実な手ぇは、なかなか踏ん切りがつかんかってんて。お前もわかるやろ、いつでもできるー思ぅてるといつまでも告白でけへんっちゅーやつや! これこそ千載一遇、って感じやないとアカンねんて」
「上条にばれたらどうすんだよ! 振られるどころか、本気で訴えられるぞ!」
たとえこのままシゲと上条が上手くいっても、いったん深い仲になれば、彼女がどれほどお嬢様でも
"あの時のハプニングはシゲの狂言で、ベッドの上で裸で目覚めたけれど、実は何もなかった"
ということに気付くはずだ。
「その辺りは上手くやるさかい、大丈夫やって♪」
明るく言うシゲに、水野は本気で脱力した。
言い切るからには、コイツは上手くやるだろう。
「……なんだか上条が可哀想になってきたよ」
水野のセリフに、シゲが怪訝な表情をした。
「世界一幸せにしたるつもりやけどなぁ」
「言ってろ馬鹿」
水野は言い置いて席に戻った。
長年の想い人を手に入れて最大級に上機嫌のこの男に、何を言っても聞き入れまい。
要領だけはやたらといいシゲのことだから、例えばれたとしたって何とかなるのだろうし。
……でも、何かあったらまた巻き込まれるんだよな、俺……。しかもなぜか、真っ先に俺。
ため息をつくと、さっき一気に飲んだ生ビールが胃にしみてきて、水野は整った眉をしかめた。

 〜END〜


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