目を覚ますと、隣に金髪の男が寝ていた。裸で。 そして、自分も裸だった。
In Trouble
「だぁぁって、そぉじゃないですかぁ〜」 だん! と大きく音を立て、みゆきはテーブルにカクテルグラスを置いた。 淡いブルーのカクテルの飛沫がデーブルに散ったのを見て、上条麻衣子は機械的におしぼりを使い、その滴を拭った。 中・高・大学を通じて麻衣子の後輩にあたるみゆきは、すっかり顔を赤くしている。ひどい、信じられない、そんなセリフを繰り返しつつ、時折涙ぐみながらも、色とりどりのカクテルを傾け続けている。 後輩はもう三十分も前から、ずっとこんな調子だった。 「しかも相手、じゅう、ごさい、ですよぅ! 信じらんない、もう! 風祭先輩のばかぁっ!!」 と言い放つと、テーブルの上に突っ伏して、うぅ〜と唸っている。 「中学の時からずっとずぅ〜っと応援してたのに。ドイツから帰ってきてからだって、試合の応援とか、差し入れとか、してたのに、気持ちに気付いてもくれなかったのに〜」 本気で泣きの体勢に入ってしまったようだ。 「はいはい」 麻衣子はそんな後輩の頭を軽く撫でてやった。
中学の頃、みゆきの気持ちに気付かないままドイツへと旅立った風祭が、足のリハビリを終えドイツから帰国して、4年の月日が経った。大学までエスカレーター式の女子高校にギリギリで入学できた麻衣子の、高校の後輩として、サッカー部の後輩だったみゆきが入学してきたのは少し驚いたが、結局、大学に入ってからも先輩後輩の間柄が続いている。だから風祭が居ない間のみゆきの気持ちも、風祭が帰ってきてからの4年の間にみゆきが頑張ってきた事も、麻衣子は知っていた。 それなのに、風祭がいきなり他の娘と結婚する約束をしたというのだ。しかも相手は生粋のドイツ人で、まだ15歳。 みゆきが泣くのも無理はなかった。 『風祭が、ドイツで出会った友人の妹と、結婚の約束をした』とみゆきの口から聞かされて、飲みに誘ったのは麻衣子の方だ。
「風祭先輩なんてもう嫌いです〜もう絶対応援しない! サポーターグッズも全部捨てます! 先輩、ほら、乾杯しましょう乾杯!!」 カクテルのみでここまで酔えるのもかわいいものだ。 「はいはい、乾杯乾杯」麻衣子はみゆきが差したグラスに自分のグラスを軽くぶつけた。 「乾杯!」みゆきは一気にグラスを傾けて飲み干した。 ……いい飲みっぷりだこと。 麻衣子はメニューを取り上げて聞いた。 「飲み物、追加する?」 「カルーアミルク!」 「はいはい」 来た店員にはこっそり(リキュール薄めで)と耳打ちして、麻衣子はお手洗いへと席を立った。
戻ってくると、みゆきはいつの間にか携帯電話を手にし、誰かと会話中だった。 音が大きく、会話の内容が漏れ聞こえてくる。 ……なんだか、聞き覚えのある声だ。 『何、じゃあみゆきちゃんも聞いたんだ、風祭に彼女ができたって。大丈夫? みゆきちゃん』 「やけ酒中なんですぅ、有希せんぱいも、どうですかぁ?」 『……国際電話で、アメリカにいるあたしを呑みに誘うなんて、死ぬほど酔っぱらってるわねー。 こっちは真っ昼間だって。他当たって、ほか』 「ちぇー」 『じゃあ、またね』 みゆきはぷっくりと頬を膨らませ、しぶしぶといった様子で電話を切った。 「さすがにアメリカからは来られないわよ」 「そうですよね、忘れてました」 ふわふわとした顔つきのみゆきは、じいっと麻衣子の顔を見つめた。 「……何かついてる?」 麻衣子が聞くと、 「やっぱり、美人ですよねー先輩」 と、唐突に返された。 「麻衣子せんぱい、もてるのに、誰とも付き合わないじゃないですかぁ。ウチの大学、男受けはいいのにぃ。学祭ミスコンだって先輩2位だったのに、すっごい騒がれてたのに、勿体な〜い」 「あなたも来年出たら、その位は取れますわよ。コンテストなんていっても所詮内輪事なんだから」 「……実は先輩、好きな人が居たりして」 「いないわ」 麻衣子は即答した。 「気になる人とか、いらっしゃらないんですか?」 「いないったら」 「じゃあ、昔、好きな人とか、気になった人とか居なかったんですか?」 「そりゃぁね、気になった人くらいは、居たわよ」 答えて麻衣子は自分のカクテルを飲んだ。この歳になるまで生きていて、誰一人気になる異性が居なかった訳がない。 「その人とどうなったんですか?」 「どうもなってないわ。離れて、そのままよ」 「……先輩もですか」とみゆきが悲しそうに口にした。 ああ、これは立ち直るまで大分かかりそうね、と麻衣子が思ったその時。 「あれえ、ひょっとして、みゆきちゃんやない?」 特徴的なイントネーションが、麻衣子の頭上から振ってきた。 「ひっさしぶりやん! 元気やった?」 明るい、なれなれしい口調の関西弁だった。麻衣子は振り返る。 「偶然近くで呑んどってん、奇遇やな〜」 満面の笑みで麻衣子の眼前にいるのは、かつてのチームメイトだ。 忘れもしない、この金髪。 この男に、中学時代さんざんからかわれて泣かされた記憶が麻衣子の脳裡を走った。 「やぁ、上条ちゃんも一緒か。ホンマ久しぶりやな。懐かしいし、ちぃとばかしお邪魔してもええ?」 麻衣子が目を見開いているうちに、彼―佐藤成樹は、麻衣子とみゆきのテーブルに来て、座ってしまった。 「急でごめん」と、また麻衣子の背中から声がした。 もう一人現れた人物―水野竜也が、佐藤に続いてテーブルに腰を下ろす。 「有希から電話があったんだ」 こっそり水野が麻衣子に耳打ちし、謎は解けた。みゆきの電話を切った後、有希は水野に連絡を取った。そして偶然、近くで飲んでいた水野と佐藤がこの店に来たということらしい。 さすが有希だった。こういう素早い気遣いは、中学時代から変わらない。 「ありがとう。助かるわ」 本音が漏れた。みゆきに付き合って、麻衣子もいつの間にかかなりの酒量を飲んでいる。麻衣子もそれほどアルコールに強いわけではないので、さすがにくらくらしていたのだ。
しばらくして、麻衣子は心底助かったと思った。 みゆきの隣に座り、持ち前の口車でみゆきに思いの丈をどんどん喋らせる金髪の男と、タイミング良く相づちを打ちながら、グラスを倒してあわや大惨事なテーブル上を手早く片づけ、注文もこなす水野のコンビは実際、やけ酒を飲ませるには最高の助っ人だった。 普段のみゆきなら先輩方を前にしての礼儀正しい態度を絶対に崩さなかっただろうが、今日のみゆきは敬語もほとんど使わずに風祭の愚痴をこぼしながら、泣き、大笑いし、最終的には沈没した。
「もう無理だな。タクシー呼ぶよ。上条、彼女の住所わかる?」 「ええ、×××の辺り。コンビニが目の前にあるから」
水野は麻衣子が言ったとおりの行き先を運転手に告げ、みゆきをタクシーに乗せると、「それじゃ、ちゃんと送っておくから」と麻衣子に言った。 「私も行きましょうか?」 「水野にまかせりゃ、大丈夫やって」 佐藤成樹は麻衣子の言葉を遮ると、水野にビニール袋を手渡す。そこまで気が回らなかった麻衣子は素直に感心した。 酔っぱらって足もとのおぼつかない麻衣子よりも、水野の方が確かに適任だった。 水野とみゆきの乗ったタクシーを見送ると、気が抜けて、少しふらついた。肩に手が置かれ、支えられる。 「ごめんなさぃ、ちょっと、回っちゃって……」 地面がぐらぐら揺れていた。こんなに酔うのは初めてだった。 「酔っとんなぁ……まぁ、俺に任しとき」 そう言った彼の胸に体をもたせかけ、広い胸だなぁ、と思ったところで、麻衣子の記憶は途切れた。 その後のことは、全く覚えていない。
次に目を開けた時、見慣れない色があって驚いた。 金色の……金髪の後頭部か、これは。 見慣れない部屋の、同じベッドの上で、向こう側を向いて、誰か横たわっているようだ。 日に焼けた肩と腕。 白いリネンから覗いている、広い背中。 ……男の背中だ。 しかも、服を着ていない、素肌で、裸で? 麻衣子は、上掛けを少しだけ持ち上げて自分の体を見た。 何一つ身につけていなかった。
それから、どうやって家に帰ったのか。 麻衣子はよく覚えていない。もうすっかり朝になっていたけれど、その晩は両親とも家を空けていたので、だれにも咎め立てされなかったのは不幸中の幸いだ。
その日は土曜日だった。講義はなかったのだが、家に居る気もせず、大学の図書館に行って出されていた課題を片づけた。 その次の日、日曜日は、家中の掃除をした。 麻衣子の住む家は一軒屋で、麻衣子と両親の三人しか住んでいないが部屋数が多く、掃除で一日を費やすのは簡単だった。 台所も念入りに磨いたので、通いの家政婦さんが驚いていたくらいだ。 後から考えれば麻衣子は、わざと自分を、思考の停止した状態にしていたのだろう。考えたくなかったのだ。他のことで、気を逸らしていたかったのだ。 そうは問屋が卸さなかったが。
日曜の夜、一本の電話があった。 有希からだ。 『久しぶりー、元気?』 「元気よ。あなたも元気そうね」 『勿論! で、早速本題に入るけど、みゆきちゃん、どうだった?』 「いきなり電話してくるから何かと思ったら。かなり酔っぱらって、愚痴も言ってたけど、どうかしら。明日会って様子見てみるわね」 明日は月曜日。みゆきに会おうと思えば、大学で会えるだろう。 『有希もマメね』麻衣子は感心して言った。元チームメイトの後輩の恋を、そこまで心配できるのは。わざわざアメリカから。 『んー、ただあの2人、役に立ったかなーと思っただけよ』 ……あの2人。 「役に、立ってたわよ。みゆき、風祭のこと、いっぱい話してたもの。やっぱり、風祭と親しい二人に話を聞いて貰えるのって大きいんじゃないかしら」 『ねえ、麻衣子、なんか声硬いわよ。どうしたの?』 「……そう? 気のせいよ?」 『気のせいって、あんたね。棒読みになってるってば』 ねー、麻衣子ー? 電話で問いかけてくる有希に、何をどう話したものか。 迷った挙げ句、あのね、と麻衣子は切り出した。 「もし……もしもよ、佐藤に私の連絡先を教えて欲しいって言われたら、断って貰えないかしら」 『わかった。なら、水野にもそう伝えといた方がいいわよ。聞かれるんなら水野経由でしょうから。水野の番号知ってる?』 「ええ」 そういえば、みゆきをタクシーで送る時、必要になるかもしれないからと、番号だけ交換していたのだ。今まですっかり忘れていたが。 『でもどうして? ひょっとして、シゲに口説かれた?』 曖昧に答えて、麻衣子は電話を切った。
水野への口止めは、留守電になった携帯に残した。 あとは学校でみゆきの様子を見よう。 それだけでいい。 後のことは、もう忘れよう。
割り切って麻衣子は次の日を迎えた。
月曜、みゆきと学食でランチを食べた。やけ酒に付き合ったことで恐縮はしていたが、案外元気なようで、麻衣子はほっとした。 デザートでも食べようかと話し合っているとき、麻衣子の携帯が鳴った。見たことのない番号が表示されている。首をかしげつつ、みゆきに目礼して携帯に出た。 「はい」 『もしもし、上条麻衣子さん?』 一言聞いただけで、全身が強ばるのがわかった。この独特のイントネーションは。 『俺、藤村……やない、佐藤成樹やけど』 そんなの、最初の一言で分かっている。麻衣子の知り合いに、関西弁の男なんて一人きりだ。 『もしもーし。聞こえとる? 今お嬢の大学前に来とるんやけど』 頭の上から水を掛けられたような気分だった。ばしゃっと、勢いよく。バケツ3杯分くらい。 『ちょお、会えんかな?』 目の前には、きょとんとした顔をして、麻衣子を見ているみゆきがいる。 ……みゆきには気取らせられない。全部が知れたら、きっと彼女は責任を感じてしまうだろう。 『もしもし?』 「っ、ちょっと待っていてくださいます? 今行きますから」 『授業は大丈夫なん?』 「偶然空いてますの。ご心配なく」 乱暴に通話を切り、麻衣子は立ち上がった。心配そうなみゆきに謝ると、校門へと走った。 大学への入り口は何カ所もあるが、待っているというからには正門だろうと見当をつけて。
案の定、正門前でへらへらと笑って待っていた佐藤成樹を引っ張って、麻衣子はあまり大学生の入らなさそうな喫茶店に腰を落ち着けた。 「どうして、私の携帯番号!」 開口一番で問い詰め口調になったのは、無理無いことだと思う。 「まぁ、落ち着き、お嬢。水野からや」 「番号教えるなって、口止めしたわよ、私! 水野に!」 水野! と怒り心頭の麻衣子が叫ぶ。 「まあまあ、俺が無理矢理聞き出したんやし」 「何よ。本人が教えるなって言ってるのに、口が軽いわよ!」 「そう言わんと、俺の事情も事情やったし? タツボンも、俺が連絡取りたい理由話したら、『お前を信用した俺がバカだった』って言ぅて、渋〜々教えてくれたんやで」 「事情って、何よ? 謝罪でもしたかったのかしら? 迷惑だわ今更、思い出したくも無いわよ! ほっときなさいよ!」 「せやかて、何かあった時困るやろ」 「……何かって、何がよ。何が困るのよ」 「そら、まあ、ほれ。アレや、お嬢、体調どない? 何か、変わったことない?」 「腹が立ってイライラしてるわ。貴方が電話なんて掛けてくるから! ……何、どうしたっていうの?」 言いながら、嫌な予感がした。最後、口調は恐るおそる尋ねた。 「んー、まあぶっちゃけてまうとやな」 と、彼はにかっと笑う。 「あん時、予防ちゃんとしとらんかったから、心配になってん。いざとなったら責任問題やし」 「なっ」 あっけらかんと言い放った金髪頭の男に、麻衣子は怒りで何も言えなくなって、思わず息を呑んだ。 彼に投げつける言葉を必死で探した。ひどいとか、馬鹿とか、無責任とか。 でも思いつく傍から、彼を非難する言葉は頭から抜けていって、終いには麻衣子は、怒る段階を通り越して、泣いてしまっていた。 「こんなとこで泣かんでもええやん。俺が悪かったし、責任は取るさかい」 宥めるように頭を撫でる彼の手を拒むことさえ、麻衣子は混乱してできない。 「何、言って……」ぐす、と麻衣子は鼻をすすった。 「信じらんない、何考えてるのよ」 「そん時は何も考えとらんかったんやろなー多分」 「あんたねぇ!」 麻衣子はテーブル越しに彼の胸倉を掴み、睨み付けた。 ここまですれば、さすがに彼も喧嘩腰になるだろうと思ったら、彼は静かに微笑んで、麻衣子の目元を拭った。 「すまんな」 麻衣子は突き放すように彼の胸倉を離し、目を逸らした。 「……何しに来たの? 謝りに?」 「や、それもあるけど」 彼は皺になった胸元を整えてから言った。 「産むなら産む、堕ろすなら堕ろすで最初から心構えしとった方がええやろー思て」 核心をはっきり口にされて、麻衣子は唇を噛んだ。産む、なんて言われても実感はないし、堕ろすなんて事は更に湧かない。 彼と体を重ねた記憶すらないのだ。 「今日、暇あるんやろ? デートでもしよか?」 「そんな事して何になるって言うのよ」涙目のまま麻衣子が言うと、 「判断材料の提供? 決めるのは全面的にお嬢やから」 と、彼は笑った。
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