名前のない恋
「へ〜、そうなんや、弓ちゃんて。大変やねぇ」 と、シゲは話を聞きつつ相づちを打った。 机に肩肘をつき、だらしない位に体を斜めにして、シゲは目の前の彼女を見上げている。この席は、上条麻衣子の席だ。 「もう、シゲちゃんたらぁ」と、甘ったるく語尾を伸ばして弓ちゃんは言い、シゲの肩を叩いた。 教室の入り口にいつの間にか立っていた上条麻衣子は、そんなシゲをちらりと見ると、無言で身を翻した。 ……やれやれ。 シゲは軽く笑ってから立ち上がると、弓ちゃんに軽い挨拶をしてから教室を出て、その背中を追いかける。 「お嬢、スマンて。機嫌直してやー、本命はお嬢やから」 「直すも何も、機嫌悪くなんてありませんわ」 「じゃあなんで教室入らんかったん」 「あなたがわたしの席に座っているからでしょう」 「それなら、邪魔やからどけぇ言うだけで済むやん。いっつもそうしとったやん、お嬢」 彼女はようやく足を止め、真っ赤な顔で振り返った。 「……あなた達、仲良くお話中のようでしたから、気をつかっただけですわ! 何か文句でも?」 「隠さんでもええて〜。お嬢、焼きもち焼いたんやろ?」 「焼いてません!」 「嘘ばっか」 また早足で歩きだす彼女の後を追いかけながら、シゲはからかい口調で続けた。 「俺がお嬢と付き合うてるって、みんな知ってんねんやから。そうカリカリせんと、どんど構えときぃ」 「私、あなたと付き合った覚えはありませんわよ!」 「そうやったっけ?」 「そうです! あなたとは何ひとつ関係ありません! 大体、クラスだって違うじゃないの!」 「へえ」 「ですから、付いてこないでいただけます!」 「嫌や」 「もう、どこかに行って頂戴!」 「嫌やって」 そんな問答を延々と繰り返した後、何を言ってもにやにやと笑うばかりのシゲに、麻衣子はしびれを切らしたように立ち止まると、ぐっとシゲの方へと身を乗り出して言った。 「何よ! 何がおかしいのよ! さっきからニヤニヤ笑ってばっかりで!」 「いんやぁ、お嬢って、足綺麗やなー思て」 「!」 麻衣子はとっさに手のひらで膝小僧を隠した。今更隠したって意味はないのだけれど。 「な、何言ってっ……勝手に見るんじゃないわよ馬鹿!」 尚もニヤニヤ笑いながら麻衣子の顔を見つめるシゲに耐えられなくなって、麻衣子はシゲの前から走って逃げ出した。
「あいつ、からかってるだけなのよ!」 息を切らしながら有希の教室に飛び込んで来た上条麻衣子は、開口一番そう叫んだ。 真っ赤な顔で、涙目になりながら必死に訴える上条麻衣子に、有希はため息を漏らす。こんな風に麻衣子が有希のもとに駆け込んでくるのは、もう日課と言っていい。 「毎度毎度、よくやるわよね、あんたたち」 有希は机に頬杖をつき、憤懣やるかたない、と顔に描いたような上条麻衣子を見上げた。 「あんたたちって、何よ、有希まで! あいつが勝手に……」 「勝手に? 今日は何されたの」 有希が聞くと、彼女は赤い顔を更に上気させた。 有希は、コレを聞いたら意地悪だなと思いながらも、あえて言った。 「なあに、そんなに恥ずかしがるようなことされたの?」 「な、何言ってるのよ有希!」 「恥ずかしいこと、ねえ」 想像するような顔をしてみせると、麻衣子は赤くなったり青くなったりしながら、挙動不審におろおろしている。 「ま、タチの悪い男に引っかかったってさ、諦めるしかないんじゃない?」 「引っかかってない!」 力説する麻衣子を見て、有希は、シゲが彼女に構いたがるのもしようがないと密かに頷いた。
シゲの心理は、わからないでもない。 要するに、上条麻衣子という少女は人の持つ加虐心をそそる条件を全て揃えてしまっているのだろう。 幸か不幸か。 「どうして有希までそんなこと言うのよ! 私はあいつとは何でもないって、あなた知ってるでしょう」 「でも他のみんなは、麻衣子とシゲが付き合ってるって思ってるのよね〜」 「付き合ってないってば! あいつが付きまとってくるだけなのに!」 もう、どうしたらいいの、と半ば涙声で言う麻衣子に、 「逃げるしかないんじゃない? 頑張って麻衣子」 逃げ切れるとも思えないけど、と心の中だけで付け加えて、有希は一応エールを送った。 「そ、そうよね、」 「ま、相手が逃げれば逃げるほど、追いかけたくなるのが男の性分らしいけど」 麻衣子は目を点にして、しばらく有希の顔を見つめてから叫んだ。 「駄目じゃないそれじゃ! ……もう、どうしろっていうのよ」 額をおさえて呻くように呟いた麻衣子に、有希はひとつアイデアを提供し、ぺろりと舌を出した。
放課後。
新体操部の部室の中で制服からジャージへ着替えている有希の耳に、上条麻衣子とシゲの声が聞こえてきた。 「ええやん、手ぇ位つないだかて」 「嫌よ。じゃま。離して頂戴!」 「今日はあんまり逃げとらんから、触ってもええんか思てまうやんか」 着替え終えて外に出た有希が目にしたのは、右手首を佐藤成樹に掴まれて真っ赤な顔をした上条麻衣子だった。 「何よ、私の勝手でしょう。手、離しなさいよ」 ぶんぶんと腕を振り、シゲの手を離そうとしているらしいが、握力はシゲの方が上だ。全く相手になっていない。 「離してってば!!」 「い・や・や」 「有希!」 必死の表情で麻衣子が有希に助けを求めてきた。 シゲは有希が近くにいるのを確かめると、しぶしぶという風に、握っていた手を離した。 あからさまにほっとした麻衣子に、シゲは有希にも分かるぐらい不機嫌な顔になった。 「ま、今日はこれ位で勘弁しといたるか」 そのセリフに、上条麻衣子はびくりと身を縮ませる。 それがまた、シゲの嗜虐性を刺激するとは、彼女は考えもしないのだろう。 「……ホンマに、今日は逃げんねんな」 シゲは大胆にも、上条麻衣子を挟み込むようにして、部室の壁に手をついた。イメージは籠の中の小鳥である。 逃げ出したい、すっごい逃げ出したいと態度に表れまくっているのに、それでもなぜか逃げない上条麻衣子に、シゲはちらりと小島有希を横目で見た。 「なんか更に面白くなってんねんけど、小島ちゃんお嬢になんかしたん?」 「アドバイスを少々」 「有希!」 ようやく有希の悪戯に気付いたのか、麻衣子が叫んだ。
「おい! 練習始めるぞ」 凄みのある声に振り返ると、水野だった。 「水野!」 上条麻衣子が思わぬ助け船に表情を輝かせる。 「タツボン、ちょっと待ってぇな。いまええトコなんやで」 「もう練習時間だっての! 上条嫌がってるだろ」 水野はシゲの背中を無理矢理フィールドの方向へと押し出すと、有希に振り返る。 「まったく……いいかげん止めろよな」 苦り切った顔つきで言った。 「なんであたしが? 部外者が邪魔するわけにいかないじゃない。野暮でしょ」 「お前、上条の友達だろ。助けるぐらいしろよ」 「麻衣子がシゲのこと、本気で嫌がってると思ってるの? あんたってほんと、女心疎いわよね」 有希は水野の端正な横顔を見上げて言った。
本気で嫌なら、相手になんかしない。無視して終わり。女の子は、結構シビアなのだ。
「……とにかく、シゲの面倒は俺が見るから、お前も練習中はけじめつけろよ。女子部キャプテンだろうが」 「はいはい」 本気で怒る前触れのような口調で言われて、有希は口先だけで水野に返事をする。ときめきにも似た心の動揺は、押し隠したままに。
つまりは矛盾しているのだ。 優しくされても緊張なんてしないのに、冷たくされると、どきりとする。彼が本気だと分かるだけに、なおさら。 愛されることに慣れているのだろう、好意も悪意も、自分の意思に添わなければ、見向きもしないのだ。 誰に告白されても揺れないし、邪魔をすれば容赦はしない。 どんなに相手が自分のことを好いていても、だ。
でもそれは、自分も同じだから、責めることは有希には出来ない。 だって例えば、水野が他の男みたいに有希に優しかったら、もしも水野が有希のことを好きになったとしたならば、有希はもうこんな風に水野にドキドキしたりはしないだろうと思うのだ。
この感情には名前がない。今のところ、有希には見つけられない。
だから、水野と有希の間にある関係にも、名前なんか付けられないのだ、と有希は思うのだ。
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