昂ぶり疲れた躰を、隣の熱から引きはがし、起こした。 ベッドサイドに腰掛け、吐息が漏れそうになるのを堪えて、ベッド下に落とされた衣服をたぐり寄せる。 下着を身につける間にも躰は、じわじわとさっきまでの余韻を訴えてくる――その、甘さ。束の間酔いそうになって、麻衣子は歯がみした。 「……もう帰るん?」 背中に掛かった彼の声は、ちょっとくぐもっていて、なげやり、と取れないこともない。 「ええ、帰るわ。まだ何か?」 乱れた髪を手で整えながら、振り返りもせず、言った。 冷たい台詞、冷たい声。 そういうのなら、麻衣子だって得意だ。
白昼夢
立ち上がって、スカートやシャツなんかを、汗の引ききらないまま身にまとってゆく。 ホテルのベッドライトは今日は初めからつけっぱなしだったから、どこに何があるのかとか服の裏表とかで苦労しなくていい。 彼――藤村成樹とこんな関係になった最初の頃は、彼が寝てしまってから、暗がりの中を手探りで、だったから、いくら目が薄闇に慣れていても、服を探すのが大変だった。 服の表と裏を間違えたこともしばしば。 最初の頃は笑い話にできていたけれど、最近ではどうだろう? いつものように、東京に来た彼から呼び出しがかかって、いつものホテルでいつもの……最後には、いや、もう止めよう。
そういえば、いつだったか。 点々と散った服を拾っていって結局、ホテルの部屋のドアの前まで来てしまったことがあった。 ……ここからあそこまで、脱がされながらいったってこと、熱に浮かされたままで。 ベッドで寝息を立てている彼の背を見ながら、裸のまま、冷たいドアを背に、そんなことを考えたのだと思い出す。
シャツを第一ボタンまで止めて、袖ボタンを確認する。 ホテルに備え付けの鏡台の近くまで歩いて、傍のルームライトをつける。 浮かない顔をした女が鏡に映る。 23歳になったばかりのはずなのに、一緒の部屋には誰もが羨む恋人がいるというのに、ずいぶんと疲れた顔だと思う。 置いてあった自分の鞄からポーチを取り出し、椅子に座って化粧を直す。 どれだけごまかせるかはわからないけれど、気分の切り替えとか、気休めにはなる。 逆に言えば、気休めにしかならないけれど。
どうにも落ち込んでいる。
背後の彼は黙ったままだった。 どんな種類の沈黙だろう? 少し気になった。 それとももう、眠っているだろうか? それならば、いっそ愉快だ。 割り切れるかもしれない。今度こそ。
最後の仕上げにイヤリングをして立ち上がり、振り返る。 意外なことに、彼はまだ起きていて、視線が交わった。
ベッドに横になったまま、上半身だけシーツから覗かせて、肘枕で麻衣子を見つめている。
「……何よ、もしかして、ずっと見てたの?」 「まあな。帰る準備すんの早いなぁ思ぅて見とった」 面白くなさそうな声で、彼が言った。 表情も不機嫌そのもの。 「なあお嬢、朝までおらん? 朝帰りしたってええ歳やろ、そろそろ」 「駄目よ、みっともない」 「家の人がうるさい?」 「そうよ。わかってるでしょう」 両親とも多忙とはいえ、同居の身なのだ。 「あまり心配かけたくないのよ」 「オールでカラオケはええのに?」 とっさに答えられなかった。 確か、彼との電話でそんな事を話したのを麻衣子は思い出す。 飲み会の二次会で、つい朝まで、だっただろうか? 「ちょっと位、嘘ついたってええやん。家に電話して、泊まっていかん?」 「……ひどくつっかかるのね」 数年に渡る付き合いで、帰るなと言われたのは今日が初めて。 「まだ十時やで。そんな急いで帰ることないんと違う? それとも、なんか用でもあるんか」
「別に無いわよ、でも帰るの。じゃあね」 「麻衣子」 強い口調で名前を呼ばれて、麻衣子は押し黙った。
空調の重低音が部屋に響く。 シゲははあ、と深いため息をつき、麻衣子を手招きした。 黙ったまま麻衣子はしぶしぶ近付く。 伸びてきた手に、何よと問う暇もなく、左手首を強く捕まれ、力まかせにベッドの上に引き倒された。 「ちょっ」 ベッドのスプリングが強くて、反動に翻弄される。 体勢を立て直せないでいる間に、彼の体がのしかかってきて、身動きがとれなくなった。 「どいて頂戴、重いわ」 「泊まってく言うならどいたる」 「帰るって言ってるじゃない」 「じゃあ、今日は帰さん」 「帰るってば」 「駄目やって」 「どいて!」 麻衣子は彼の二の腕あたりを力一杯押し返して言った。 「私の勝手でしょう」 「そうや。親に心配かけんように、ってのも理解る」 「わかってるなら離して。いつもはそんな事言わないくせになによ」 抵抗する麻衣子の両手首を両手でベッドに押さえ込んで、シゲがまた深くため息をつく。
――何なのよ、いったい。 眉をひそめる麻衣子に、あのなぁ、と言い辛そうに切り出した。 「こないだ、帰るまえ、お嬢風呂場で泣いとったやろ」 「起きてたの……盗み聞きなんて、最低」 恥ずかしさと後ろめたさで、麻衣子はとっさに彼を責める言葉へとすり替えた。 あのとき、てっきり彼は寝ていると思っていた。
彼はたいていすぐ寝てしまうから、バスルームでなら泣いても大丈夫だと思っていたのに。
彼はむっとした顔で、麻衣子の顔を見つめた。にらめっこでもしているみたいに。
もちろん、こちらが負けるはずもない。 「今日なんかひと休みもせんと帰ろうとするし」 「私の勝手でしょう」 「あのなぁ」 と言ってから、彼はいったんことばを切った。 何度か言いためらい、数秒目を閉じてから切り出す。 「……俺と、一緒に居たくないんやとしか、思えんのやけど?」 そんなんじゃない、ととっさに言いかけて、口ごもった。 彼の表情がひどく真剣で、どこか苦しげだったからだ。 見ていられなくなって、彼の顔から目を逸らしてから、麻衣子はしまったと思った。 麻衣子に覆いかぶさっている彼はまるっきり裸で、麻衣子はきちんと服を着ていて。 そんな状況がなんだか無性に恥ずかしくなって、結局その色を隠さないまま、ふたたび彼の顔を見てしまう。 彼の質問に答えないままで、そんな表情をした。 そんな反応をどう取ったのかはわからないけれど、それが多分、いけなかったのだ。 彼の表情と雰囲気が、一変した。
押さえつけられていた麻衣子の両手首が、ゆっくりと持ち上げられ、ひとまとめになる。軽く動かそうとしたけれど、びくともしない。 そのまま彼の左手で、両手を頭上に押さえつけられた。 「……シゲ?」 麻衣子の中の、動物としての本能が危険を告げていた。 顔は無表情と言えるぐらい。なのに、目が違っている。 ――肉食獣の目だ。獲物の弱みや反応を冷静に見極める目――狩りをする時の目。 本気で両腕に力を入れ、振り解こうとしたけど、彼の左手の握力が増しただけで、全然だめだ。抵抗している隙に、彼の右手はシャツのボタンに掛かる。 「ちょっと待って、や」 シャツのウエストまで外されるのに、十秒かかったろうか? 両の鎖骨をなぞるように胸元が広げられて、シャツの間から下着があらわになる。 ここまでされて、彼の意図が分からないわけがなかった。
降ってきたキスは、顔を背けて避けた。 そのまま首もとに埋められた彼の頭からは、できるかぎり上体を離して抵抗する。 「やめて、今日はもう帰るってば、あっ」 いつの間にか、下着の隙間から入り込んだ彼の指先に、胸の頂きに触れられて、背筋がびくっと引きつった。 そのままてのひら全体で包み込まれ、表面を撫でられる。 まだ熾火がのこっているから、簡単に火はつく。ついてしまう。 酔うのを気取られたくなくて、唇を噛んで、顔を背けた。 背中のホックが外される。胸元が涼しくなる。 金の頭が首もとから離れて、胸元に落ちてきたのを横目で捉え、目を閉じた。 彼の舌先は絡むように動いて、麻衣子をねじ伏せてゆく。唇を噛んでいても、漏れ出る声を殺しきれなくなる。 息が荒くなる。 背中に汗が吹き出す。 熱に耐えきれず、膝を曲げてシーツを蹴った。 ベッドが軋む。 「 っ、――っ、んっ」 少し高く上がってしまった声に、彼の舌がようやく離れた。
噛んでいた下唇を離し、肩で息をする。 体を離した彼が、そんな麻衣子を見下ろしているのが気配でわかる。 ――離して、と言いたかったが、冷たい響きで言える自信がなかった。 下手な抵抗は男を煽るだけだ。誘惑にしかならない。 そんな男のさがを、麻衣子は今では知っている。 「……お願い、離して」 彼から顔を背けたまま、できるだけ冷静に聞こえるように口にした。 …あんな目をした彼が、これぐらいで満足して止まってくれるとも思えないけれど。 腿をなぞるようにスカートをたくし上げられて、やっぱり、と思う。
彼も緊張していた、はじめての頃が嘘のようだ。 いつの間にかライトはつけっぱなしになったし、行為にしたって、麻衣子が彼自身をせがむ言葉を口にするまで焦らすようになった。 昔の、尊大な迷い猫のような、余裕のない彼が懐かしい。
ふたたび胸元へ落とした唇で麻衣子の反応を引き出しながら、彼は器用に下着を剥ぎ取って、ためらいなく隠された部分へと触れてくる。 亀裂を確かめるようになぞる彼の指の感触は滑らかで、否が応でも、自分が蕩けているのだと知らされる。 軽く浅く、小刻みに探られたかと思うと、行きつ戻りつを繰り返す。とろりとした感触が移動するたびに、湿った音が上がる。 どこか稚気まじりで、ゆっくりな動きと、満たされない感覚に翻弄されて、意識の糸が凝縮してゆく。 彼の指先の動き、それしか考えられなくなる。 押し殺そうとしても息が乱れて。 上へさかのぼってきた指が、蕾に触れた。 強烈に奔った快感に思わず身をよじる。 そのまま集中的に高められて脚から意志が抜ける。 やるせない熱が、躰の中心からどんどん溶け出してゆく。
弾む呼吸に飲み込みきれない甘い吐息と声が混じる。 スピードを増す彼の指から逃げるように腰が、揺れた。 「なぁ、これでもまだ嫌なん?」 意地の悪い質問が耳元へと落ちる。 いつもなら、痺れるように疼く熱をもてあまして、もうだめ、と降参している頃だ。 一度目ならそれでもいい。 二度目は違う。こんな無理矢理に、麻衣子の意志を無視して抱かれたって嬉しくなんかない。 返らない答えに業を煮やしたのか、するりと彼の指先が麻衣子のなかに入り込んだ。 内の弱い部分、外の敏感な部分を同時に刺激されて、四肢が不規則に引きつりはじめる。 意志とは裏腹にあがる声の響きが、どんどん高くなってゆくのが自分でもわかる。 「何で、どうしてこんなっ、」
我慢出来ずに、叫ぶように言った。 「嫌だって、言って、ん、ん、やぁっ」 抗議の声すら満足に出せない麻衣子の耳元に、彼が唇をよせる。 「……朝まで一緒におりたいだけや」 押さえつける手の力は少しも弱めず、指先の緩急も保ったまま、麻衣子を弄びながら耳元に囁かれた台詞。 低く、弱々しい声だった。 ……そんな声を出す位なら、どうしてこんな? そう思ったけれど、言葉にできるほど余裕が残っていなかった。 完全に波に呑まれて、躰がリズミカルに痙攣しはじめる。 それを感じ取った彼が、口の端をあげたのが見えた。
抗っても抜け出せない。 快楽で絡め取られる。 どこをどうすれば、麻衣子がどうなるのか。 どうすれば支配できるのか。 何もかも知られてしまっている。 いつだって、悦楽の果てを覗き込まされる。 崖っぷちで落ちまいと踏ん張っているのに、彼は背中を押し続ける。 指先だけで、軽々と。
堕ちてゆく恐怖。 自分が無くなる恐怖。
本当に、もう限界。
「嫌だって、言って、っ、離しなさ、馬鹿っ」 拒絶の言葉と、罵声を浴びせる。 体の自由を封じられている今できる、最後の抵抗だった。 「嫌だってば、シゲ、っ、や、ぁ、だいっ嫌い!」 「……お嬢の大嫌いは、きもちええってことやもんな」 「、違っ」 突然に彼の指から解放されて、あ、と思ってから、留める言葉を出す暇もなかった。 一気に熱いものに入り込まれて、つま先まで痺れが走って、麻衣子は悲鳴を上げた。 「や、出てって、ゃ、やぁ、やっ、」 揺さぶるように貫かれる。 「何やて?」 「シゲっ、嫌っ」 「そんな台詞、聞きたない」 彼は上体を起こして、右手で押さえつけるようにして麻衣子の口を塞いだ。 「 っ、 ぅ、 ぁ」 何度も繰り返される、律動、衝撃、火がはぜるような。 満足に声をあげられなくなって、行き場を失った熱がとぐろを巻いてゆく。 手首は相変わらず押さえ込まれたままで、自由にならない。 もう抵抗する術がない。 角度を変えた彼の動きに合わせて、躰が跳ねるように反応するのを止められない。
堕とされる。 プライドも何もかも。
支配される、屈服させられる。 彼に隷属している、と理解して、躰がいっそう敏感になる。
喉の奥から叫び声がほとばしる。 彼のてのひらに押さえつけられているせいで、くぐもっているから言葉になんかならないけれど、麻衣子は自分がどんな種類の声を出しているか知っている。 懇願、渇望、果てのない飛翔への希求。彼が悦ぶ、せがむ言葉のたぐい。 躰が上げる歓呼だ。意志では押しとどめることができないぐらいの。 認めたくなんかないけれど、その事実すら快楽の後押しになる。
堕ちる快楽。 自分が死んでゆく快楽。 自我がバラバラになって、躰だけに、性感だけになってゆく快楽。
それは、かつてないほど、高く、永くて。
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自身が弾ける感覚に、全身の筋肉が弛緩してゆく。 彼女の両手首を押さえつけていた左手を解き、右手も持ち上げる。 右のてのひらが彼女の口元を解放すると、部屋に響いていたくぐもった彼女の喘声は、細くなりながらもしばらく続いた。 その音の余韻に目を細め、シゲは折り重なっていた体を離してのろのろと後始末をはじめる。 自分の分と、焦点の合わないまま天井を見上げている彼女の分と、両方。 タオルを巻き、何と言うべきか迷っているシゲに、彼女は最後まで視線を向けなかった。 「……帰るわ」 彼女はひどく億劫そうに起き上がると、乱れたスカートの裾を直してシゲに背を向ける。 ベッドから降り、立ち上がったかとおもうと膝がかくっと折れ、体が揺れて、シゲは慌てて手を伸ばし彼女の二の腕をつかんだ。 彼女はそのままカーペットに座り込む。 「大丈夫か?」 肩が上下に揺れていて、大きく息をしているのかと一瞬思ったが、違った。 しゃくり上げる声が聞こえはじめる。 彼女は、泣き出してしまったのだ。
ベッドの上に無理矢理引きずり上げて、震えている肩に手を乗せ、体をこちらに向かせた。彼女はうつむいて視線を下に落としたまま、目を合わせようとしない。 「麻衣子」 シーツに点々とシミが散ってゆく。 イヤリングが片方、シーツに落ちているのに、シゲはそのとき初めて気付いた。もう片方は見あたらない。彼女の耳にもなかった。 「……すまん」 「どうして謝るのよ」 しゃくり上げながら言われてしまった。 「理由はようわからんけど」 「っじゃあ言わないでよ、ばか」 「だって、泣いとるし」 言いながらもシゲは彼女のあられもない格好が気になった。 シャツは両肩まではだけて、下着はかろうじて引っかかっている、という風。 ――いかにも乱暴されましたて感じやな、いや、俺がやったんやけど。 とりあえず、はだけたシャツを整え、汗で額や顔に張り付いた髪を、丁寧になでつけて整えてゆく。 彼女は胸元でシャツを合わせるようにして握り、両手を重ねた。その手の甲にも水滴が散って止まらない。
とうとう、考えることすら嫌だった、別れの予感が現実になるのだろうか? そう思うと彼女に触れていられなくなって、シゲは手を引いた。 「そないに俺が、嫌か」 静かに言うと、彼女が肩口に頭を寄せてきた。 冷たい感触がシゲの肌に落ちる。涙だ。 「嫌いになりたいわ」 声を震わせて彼女が言った。 「そりゃ……困るわ俺」 恐る恐る手を彼女の背中にまわす。拒否する様子もないので、少し力を入れて抱きしめると、彼女が体重を預けてきた。 その仕草に、深い安堵を覚える。どうやら本気で嫌われた訳ではないらしい。 慰めるように髪を撫でていると、彼女はぽつぽつ話し始める。
「嫌だって言ってるのに、なんで、こうなるのよ」
「あなたのせいよ、こんな躰、」
「自分がこんなだなんて、知りたくなかったのに」
「こんな躰て……あぁ、さっきの反応か」 そう言うと、黙り込んでしまった。 反応がいいのはいいことだとシゲは思うのだが、彼女にとってはそうではないらしい。 理解はできないけれど、泣くほどのことなんだろうと、シゲはなかなか泣きやまない彼女の背を撫でた。 「せやな。俺が悪かった」 「……悪いなんて思ってないくせに」 「そんなことないて。無理矢理に悪かった思うとるで」 鳴いとる躰が目の前にあるいう時に止まるんは難しいんやけどなぁ、と思ったのも確かだが、彼女に去られてしまう不安に駆られていたにしろ、ああいうやり方はまずかった。 まずいとは思いながらも歪んだ誘惑に勝てなかったのだ。 「お嬢の気持ち無視して突っ走ってしもた。すまん」 彼女はシゲの肩に額を乗せたまま軽く首を振る。 「少しは落ち着いた?」 ひとつ頷いて、彼女はシゲから体を離し、目元の涙を拭う。 「ひょっとしてお嬢、気持ちええの嫌なん?」 「嫌って言うより、怖いのよ」 「俺が?」 「私が、よ。私っていうか……自分が自分でなくなりそうなのが……あなたから逃げられなくなりそうで」 「逃げんでええやん。俺のモノにしときたいんや」 シゲは彼女の顔を覗き込むようにして言った。 「我に返らんで、ずっと溺れといたらええやん」 「そういうわけにいかないのよ。私は家に戻らなくちゃならないんだから」 彼女は緩く首を振る。 「娘の顔をして、帰らなきゃならないんだから」 やっぱり帰るんか、と思ったシゲは、ため息をひとつつく。 「どうしたって、逃げていくんやなぁ」 「だって、24時間一緒になんて、いられないでしょ?」 「……そうやけど」 駄々のようなものだと自分でも解っていた。 それでも、彼女を帰したくないという思いを押さえることができない。 「……シゲ?」 黙り込んだシゲに彼女が声をかけた。 彼女を手放すのを、失うのを、シゲがどれだけ恐れているのか、どうやって伝えればいいのだろう。
彼女を抱いた後の、満ち足りた感じや、 彼女の体温を感じながら落ちる眠りの心地よさ。 他の誰も代わりにならない。そんな確信がある。
朝、起きて一人だと気付く。 隣にはだれもいない。過ごす時間が短いからか、残り香すらない。 彼女はなにも残さずに消えてしまう。 だから、 昨夜の出来事も、夢かもしれないと思う。 彼女を手に入れた。そんな幸福な夢。 ――いや、 所詮が、夢なのだ。人は人を所有できないのだから。 何度彼女を抱いても、腕の中で喘がせても、本当には手に入らない。 独占欲が見せる、単なる幻想。 白昼夢。
彼女を支配して、束縛して、夢を少しでも長く強くと願うのは間違いだったろうか。
「……あのな」 「朝起きて、お嬢が隣におらんのが、しんどいねん」 「寂しいちゅーか、虚しいっちゅーか」 「せやから、朝まで傍にいて欲しい」
結局そんな言葉にしかならなかったが、彼女はひどくほっとした顔になって言った。 「……何よ、最初からそう言ってくれればよかったのに」 「ええの?」 「あなたがつらいって言うなら、そうじゃなくしてあげたいと思うわ」 「……さよか」 そんなものでよかったのかと思った。 こんなにあっさりと受け入れられると思っていなかったシゲは少し驚いた。
アリバイ工作の電話を掛けた後、彼女は、泊まるからにはシャワーを浴びる、と言ってベッドを降りた。 以前、バスルームで泣いていた彼女をシゲは思い出した。あの時の泣き方は、さっきの躰が思うようにならないという理由では無い気がした。 あの時は問いただせなかったが、今なら理由を聞きだせそうだった。 「また泣かんやろな」 「泣かないわよ」 「……なあ、俺が嫌やったんやないなら、なんで泣いとったん。あのとき」 彼女はシゲに背を向けたまま足を止めた。 「言えないわよ。ただのワガママだもの」 「わがままでもええ。お嬢は、もっとわがまま言うてええで。普段なんも言わんねんから。だいたい、女のわがまま叶えるんが男の度量いうもんやねんで」 彼女が口元をおさえながら背中を丸める。これはひょっとして、とシゲはベッドから降りて、彼女の前に回り込んだ。 「麻衣子?」 顔を覗き込めば、いまにも泣き出しそうな顔にぶつかる。やっぱり、と思ったシゲは続けて言った。
「……なあ、頼むから、言って。言ぅてもらわんと、わからんのや俺、馬鹿やから」 首を振った彼女の手を取ると、下唇を咬んでいるのがわかった。 「意地っ張りやなぁ」 軽くキスをすると、震える唇の感触が伝わってきて切なくなった。彼女が唇を噛むのを止めるまで何度か繰り返してから顔を離すと、目じりから涙がこぼれおちる所だった。 「好きな女に泣かれるんが一番困るんやって。泣くほどしんどいんやったら、どうにでもしたるから」 両手で柔らかな頬を包んで、頼む、と繰り返すと、彼女は意を決したように視線を合わせて、瞳を潤ませたまま言った。 「なんだかどんどん……体だけみたいになってくのが……嫌で……だから」 「うん」 「……もっと……大事にして」 「他には?」 今のがわがままだって? と思ったが、視線を落として首を振る彼女に聞き返すことはできなかった。 「わかった。約束する」 結局それだけ口にして、不安げに目を上げた彼女に、シゲはもう一度キスをした。
彼女の姿がバスルームに消えるのを見た後、ベッドに寝転がった。 わがままと言うよりは、なんというのか…… 大事にして欲しい、ということは、今までぞんざいにされて不安だった、ということだ。 「あー、最近会うとるの、夜ばっかりやし、仕事にかまけて誕生日も手ぇ抜いたしな」 信用ないんやなぁ、と思った。 わがままどころか、言って当然の弱音すら言って貰えないのだから。まあ、自分だって弱音は吐けない性分だから、お互い様といえばそのとおりだが。 しかし、ここまで顔が売れてしまうとデートの場所にも困るというもの。 人だかりに囲まれて、週刊誌やら何やらスキャンダラスな出来事に一般人の彼女を巻き込むのは嫌なのだ。 「どっか行くってもなぁ……田舎とか……いっそ海外かいな」 いいアイデアかもしれない、と考えたところで、シゲの記憶はとぎれた。
軽い揺れを感じて、意識の水底から引き揚げられる。 気付くと、バスローブを着込んだ彼女がベッドに腰掛けていた。 シャワーを浴び終えたばかりらしく、頬が上気している。 「スマン、一瞬寝とった」 「すぐ寝るんだから」 「せやからスマンって。男ってそーゆーもんやねん。疲れんねん」 体をベッドの端に寄せて、手招きをした。彼女が隣に空けたスペースに自然に横たわってくれたので、内心安堵する。 そのまま肩まで上掛けをかけてやると、彼女は笑って 「こうすればよかったのね」 と言った。 「ん? どーゆーことや」 「起きてって言って、起こせば良かったってこと。私が帰る時、あなたいつも寝てるんだもの。毎回、寝てるあなたに見送られてごらんなさい。虚しいったらないわ」 シゲは想像してみた。事を終えて、帰りしなに相手を見れば寝り込んでいる。いつもいつも寝ている。それは確かに虚しい。 「だから早くかえりたかったん?」シゲが起きているうちに、と問うた。 「それもあるわ」
彼女はシゲの肩口に額をあてる。 「……ほんとは、今日で最後にしようと思ってた。ここに来るの」 「……別れるつもりやったってこと」 寂しそうに微笑んで、彼女は頷かないまま肯定してみせた。 そこまで辛かったんだろうか? 「麻衣子、ごめんな」 「いいわよ、もう」 シゲは早速、さっき考えた海外に行こうというアイデアを彼女に話したのだが、あまり乗り気ではなさそうな返事をされて、困ってしまった。 大事にすると一口にいっても、実際行動で示すのは案外難しい。サッカーと商売、二足のわらじを履いている今ではなおさらだ。 うなりながら悩んでいるのを見かねた彼女にシゲが言われたのは、些細なことだった。
ほっそりとした腰に手を伸ばし、密着させるように引き寄せて、両腕できつく抱きしめる。滑らかな肌からか、しっとりと冷たく湿った髪からかは解らないが、ふわりと石けんのいい香りがした。 「……ホンマにこれだけでええの?」 胸元の彼女に尋ねる。 「ええ」 「……しあわせ?」 「すごく」 シゲの胸元に愛おしげに顔を埋め、瞳を閉じる彼女。 ……なんてことだろう、ただ、抱きしめて欲しかっただなんて? 困ったことに、腕の中で無防備に息をしている、そんな素直な彼女が、あまりにも可愛くて。 性懲りもない理由で、目が冴えてきてしまって、シゲは頭をかかえた。 きつく抱きしめていた腕をゆるめ、軽く体を引く。 そんな動きを機敏に察して、彼女は不満げに視線を上げた。 「どうしたの? 暑い?」 「いや、そうやないけど」 彼女がまた不安げな表情になってしまって、焦った。 「嫌なんやとか面倒いとかやないで。ただ、その、困ったことに、やな」
自分でもそう思うのだからどうしようもないのだが。 「あー、もちろん我慢する、我慢します。ただ、くっついてるのはちょっと具合が悪いんや」 少し考え顔になった彼女は、少しの間を置いてから、視線をちらりとシゲの胸から下へと落とし、問うようにシゲの顔を見る。 すんません、とシゲは表情で白旗を揚げた。 「……シゲ」 「いや、言わんといてくれ、言いたいことなんとなく分かっとるから」 呆れた、とか、いい加減にして、とか、そんな類だろう。 完璧にコントロールできる部位ではないのだから仕方がないと、シゲはため息をついた。 「落ち込んでる? めずらしい」と、シゲの頬に少し冷たい指先が触れる。
「……なんや、情けのうて」と言うと彼女は、シゲの頭を抱きかかえるように両手を回し、ひとしきり笑いに身を震わせる。 「いいわ」 「えぇ?」 シゲは彼女の顔を思わず覗き込む。穏やかな微笑みを浮かべている。 その表情にしばし見入ってしまったシゲに、彼女はいたずらっぽく目を細める。 「なあに、私から呼ばなきゃだめなの?」 彼女は軽く小首を傾げてから、体を伸ばしてシゲの耳元に唇を寄せる。 「……お願い」 静かに囁かれた言葉の意味を理解するまでたっぷり三秒。 弾かれるようにシゲはふたたび彼女を見た。恥ずかしそうな顔に出会って、血が沸いた。 そう、合い言葉のようなものだ。感覚が昂ぶった時に彼女が口にする台詞。シゲを促すための。 彼女の耳元に唇を寄せ、低い声で囁いた。 「ほしいん?」 「……欲しい」 「何を?」 「馬鹿」 返事から間を置かず唇を重ね、彼女の柔らかさを堪能することにした。
浅いキスを何度も繰り返しながら、躰を合わせる。 目眩を起こしそうな、暖かさに埋もれてゆく。 躰の境界が無くなるような、頭が芯からとろけてゆくような、甘い陶酔に襲われる。 初めてのキスの時感じた陶酔に似ていた。 彼女が耳元でシゲの名前を囁く。 その響きの、甘さ。 受け入れられている。許されている。 さっきの、背骨を奔る、脳髄を灼く快感ではなくて、彼女の体温に包み込まれるような、一体感があった。 顔を上げて、彼女の瞳を覗き込んだ。 熱で潤んだ、蕩けるような視線。 誘われるように口づけ、奥に潜んでいる柔らかな感触を深く求めて、絡ませる。 彼女の、多分無意識に行われている反応に、自分も無意識で応じながら、 どんどん自分が、理性から本能まではがれた、躰すら無い、むき出しの、単なる『存在』になっていく気がした。 はぁ、と息をついて彼女が唇を離しながら体を引いた。
シゲが白く細い喉もとに口づけると、彼女は喉を震わせ、背中に回した手を強くした。
繋がり合っているところから、彼女の様子が伝わってくる。 「麻衣子」 「……なあに」 「すまん、さすがに保たん」 彼女は、無言でシゲのこめかみにキスをした後、笑ったような吐息をシゲの耳に掛けた。 お返しとばかりに、シゲは軽く彼女の耳を噛んだ。小さな笑い声があがる。明るい声だ。救われた気分になった。 背中に回っていた手が、シゲのうなじを辿るようにさかのぼって、後ろ髪を軽く引く。 どうぞ、と、十分な熱を持った声音で囁かれ、ゆるやかに上りつめてゆく。 彼女の内の動きに導かれるように、シゲは堰を解放した。
余韻のようなざわめきを感じながら、深く息を吐いて、彼女を抱きしめる。
今のは、彼女に抱かれたのだと思った。
いい加減重いだろうと上から退き、彼女の横に転がって、シゲは目を閉じている彼女の頬に触れた。彼女は、ぼんやりとした目でこちらを見る。 シゲは思った通りの事を口にした。 「お嬢、今までで一番、きれいに見えるんやけど」 「きっと幸せだから、よ」
「てっぺんまで行かんでも?」 「そうね……」 何か、満ち足りたかんじ。 そう言って、彼女が微笑むのが見えた。
彼女と居るのが、日常になるといいと思った。夜毎に途切れる細切れの、非日常ではなくて。 朝が来ても彼女が隣にいる、そんな日常が欲しいと思った。 目眩をおこしたように意識が遠ざかってゆくのを感じながら、シゲは言った。 「なぁ、朝メシ、何がええ?」
――散々考えて答えようとした時にはもう、隣から穏やかな寝息が聞こえていたものだから、シゲの希望とは正反対のものにしてやろう、と心に決めた麻衣子だった。
end |