夏の海 5
シゲが宿舎を抜け出すと、外には波音がこだましていた。空気は乾いていて、昼の厳しい暑さも和らいでいる。風も強くない。 過ごしやすい夜だ。 海までは歩いてすぐ。 家屋の光から遠ざかるように、シゲは足を踏み出した。
外で午前一時に、とだけ約束した。待ち合わせ場所としては曖昧だ。でも必ず会えると思った。ほとんど確信だった。 シゲと彼女の間にある、見えない引力のようなもの。 何かはわからないが、確かに存在する。 運命の赤い糸だと言い切るほど、将来を楽観できればいいのだが。 甘いものではない。幸福を約束するものでも、きっとない。 彼女にとっては、無い方がいいものかもしれないと、少し考えた。
シゲが海辺を歩いてゆくと、前にぼんやりと人影が見えた。 外灯の明かりも届かない、体格すらあいまいな影でも、 ――彼女だと判る。確信できる。 小声が届くくらいの距離まで近づくと、突然吹いた強い風に彼女は身じろぎをしてシゲを振り返った。 白い肌がぼんやりと、暗い背景に浮かんでいる。 「これからどうするの?」 「さあ、決めてへんかった。ちょぉ、歩こうか。せっかくやから」 シゲは促して、歩き始めた。
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砂浜で車を見つけた後、トラブルじみたものに巻き込まれて、彼に手を引かれて逃げ出した時、少し怖かった。 彼に引かれるまま冷たい海に入って、腰元まで波にさらされている時も、彼は麻衣子を庇っていた。 彼の背中を広く感じた。守られるのが、少し嬉しかった。 追いかけてきた相手は、砂浜で引き返したらしい。少し時間をおいてから、彼の手から緊張が抜ける。 「……もう大丈夫やろ」 触れていたことに今はじめて気づいたように、彼は突然麻衣子の手を離し、そのまま立ち尽くした。 潮の香りと一緒に、彼の匂いを微かに感じた気がした。 暗闇でも互いの気配がわかるぐらいの距離。もう抱きあうの方が自然なほどの距離だ。 彼は抱きしめるだろうかと麻衣子は思った。 彼に抱きしめられたら、きっと麻衣子の心は虚空に浮いて取り残される。 彼の体温も、彼の好意にも、何の意味も感じなくなる。 心は凍ったままで、麻衣子の身体は、麻衣子の手は、彼を抱きしめ返して応じるだろう。自然に。勝手に。 夜の海。 暗い。水平線が見えない。空と海の境界は、漆黒に溶けて曖昧だ。 足裏の砂が波にさらわれて、不安定な足もとがふらつく。 水に体温を奪われて、下半身の感覚が無くなってくる。 今なら、この暗い海に、溶けて消えられそうな気がした。
「お嬢……戻らんでええの?」 シゲが静かに言った。
暗い誘惑。水が冷たい。
「……俺も一緒に行こか?」 頭上から降ってきた言葉に驚き、麻衣子は彼を見上げた。 表情は読み取れない。 暗くて――夜の海は闇が濃すぎて。
そう、彼には太陽が似合うのに。 ピッチに降り注いでいるような、熱い、じりじりと肌を焦がす、真夏の太陽が。
「――私にひっぱられちゃ、だめよ」 麻衣子はようやく言った。 「お嬢がそうなったん、俺のせいやろ? ……なら、一緒に行くよって」 こうやって彼も、堕ちてゆくのだろうかと思った。 連れて行きたいなんて、微塵も思っていないのに。 彼の行く先には、洋々とした未来が拓けているというのに。 「……馬鹿ね。戻りましょう」 「……」 「風邪、引くわよ。いくら夏だからって、夜は結構寒いもの。帰って着替えましょう」 そう言って、麻衣子はシゲに背を向け、浜へと歩きだした。
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「……馬鹿ね。戻りましょう」 彼女は無理に笑顔を作ったのだろう。作った笑い声で言った。 「風邪、引くわよ。いくら夏だからって。夜は結構寒いもの。帰って着替えましょう」 彼女は海の中から、丘へと歩きだした。 離れてゆく背中を、抱きしめたいと思った。一緒に居たかった。彼女に触れて、抱きしめて、目茶苦茶にして……一緒に暗い海に溶けてしまいたかった。 拳を握って、こらえた。
明るい場所へ戻る方法を知りたかった。 彼女が笑っていた、中学時代の、夏のグラウンドへ。 太陽が照らす空の下へ。 彼女を引きずり込む前のあの頃に、一緒に戻りたかった。 ――それができないのなら、 彼女だけでも、帰すべきなのだ。 彼女を引きずり込んだのは自分なのだから。
end
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