その夜。真夜中を少しだけ過ぎた時刻。 麻衣子は、時間を確認すると、布団を静かにまくり、立ち上がった。 静かだった。ひとつ部屋の和室に全員で休むことになった女子部員たちだったが、皆、寝ているみたいだ。 襖をゆっくりと開け、麻衣子は宿の廊下へ踏み出す。
夏の海 4
夜になると、波の音が大きく響くものだと、麻衣子は思った。こうして浜辺へ来るとなおさら響く。夜闇は深く、水際の境も、海面と夜空の境も、墨色に塗られて判然としない。 ぐっすり寝入っているだろう皆を起こさないようにして、静かに麻衣子は浜辺に出てきたが、特に待ち合わせ場所は決めていなかった。なのに少しして、後ろからサクサクと砂を踏む音が聞こえてきて、誰だかわからないのに彼だと確信できていることがなんだかおかしかった。 たぶん、本能的なものだろう。防衛本能か、身体欲求か、どんな本能かはわからないけど。
「待たせてもうたか?」 後ろから来た彼が言った。 「いいえ。ほとんど」 「さよか。……夜の海は雰囲気がちゃうねんな」 「そうね。真っ黒」 とつぜん風が吹いて、麻衣子の長い髪を吹き散らした。乱れた髪を手で整えていると、彼の視線を感じたので麻衣子は振り返った。 彼が手を伸ばしたくらいの距離に立っていて、麻衣子を注目しているのは分かったが、周りは暗くて、彼の来ているTシャツの柄は分かるのに、細かい表情までは読み取れない。 「……これからどうするの?」 麻衣子は聞いた。 「さあ。決めてへんかった」 彼は素知らぬ声で言った。「ちょぉ、歩こうか。せっかくやから」 彼は歩きだす素振りをした。麻衣子は彼の背中を見て少しためらってから、彼について歩き始めた。
足元は不安定だった。サンダルを履いて、砂の道を歩いていては。彼は歩調を合わせてくれているので、遅れることはないけど、麻衣子は時々ふらふらした。彼はそのたびに振り返って麻衣子を見た。いっそ手を引いて支えてくれたらいいのにと、麻衣子は考えて、そんなことを考えた自分を振り切るように大股で歩いた。
砂浜を歩いているうちに、黒い大きな影が目の前に近付いてくるのに気付いた。何かは最初、わからなかったけれど、そのうち影の取る特徴的な形で麻衣子も気付いた。それは車だった。浜辺まで乗り込めるようになっている、車高が高いジープのような車。 「車、だったのね」 「そうみたいやな」 「こんな時間に、こんな場所に停めるものなの?」 「さあ、普通はせんのと違う?」 「そうよね……何か事件でも」 「ちょい待ち」 更に車に近付こうとした麻衣子を、彼が引き留めた。 麻衣子は怪訝な顔で彼を見た。暗いのでよく見えないが、彼は聞き耳を立てている風なのが分かった。 麻衣子は眉をしかめた。車が軋んで、音を立てているのが分かったからだ。 「……だれか車の中に」 「しっ」 彼の静止は、少しばかり遅かった。 車の中にいた人達に、麻衣子達の存在を気付かれてしまったのだ。
* * * * *
それから数時間後。 麻衣子が宿へ戻ると、女子部屋へと続く襖の前に、小島有希が座って待っていた。 麻衣子が近付くと、眠そうに眼を伏せたままで、視線を合わせずに言った。 「麻衣子」 「……なあに」 「あたし、ばれても庇わないわよ。もう、止めなさいよ、こういうの」 「迷惑かけてごめんなさい。でもなるようにしかならないのよ」 襖に手を掛ける麻衣子を呼び止めるように、有希が続ける。 「大丈夫なの? ちゃんと話し合ってる?」 「何を?」 「あんたたちが付き合ってるって言うなら、あたしが口出しすることじゃないけど」 「付き合ってるわけじゃないわ」 「ならなんで……」 有希は言いかけて、途中でいらだたしげに溜息をついた。 「髪、濡れてるわね。……海の匂いも。泳いだの?」 麻衣子は首に張り付いた髪を整えながら、そっと襖をあける。 「少しね。服も代えなくちゃ」 「麻衣子」 「……なあに」 「私はあんたのこと友達だと思ってるから。それだけ覚えておいて」 小声で投げつけるように言うと、有希は麻衣子を追い抜いて部屋に入った。
シゲは夏の濃い闇の中に、ひとり佇んでいた。まだ夜明けは遠い。 肌に張り付いてくる、濡れた服が不快だった。 海岸沿いにある共有の水道でばしゃばしゃと水を浴びていると、誰か近付いてきた。 水野だった。 「何してんだよ」 「水浴び。塩まみれやから」 「こんな夜中に泳いだのか? 溺れたらどうすんだ馬鹿」 「しゃーなかったんや」 「……上條は」 「先、部屋戻らした」 キッ、キッ、と甲高い音をたてながら、シゲは蛇口を閉めた。海近くではさびるのも早いのだろう。やけに耳に痛い。 「お前、何やってんだよ。お前ら二人だけで来てんじゃないんだぞ。迷惑考えろよ」 「野暮やなぁタツボン」 からかい混じりに言うと、ぐっと胸ぐらを掴まれた。 「責任考えろって言ってるんだよ! 高校も、ユースもだ。全国代表の名前背負ってるんだぞお前は! 何かあったらそれでお終いだろ」 シゲは笑う。 「何かって、何や? 事故とか補導とか?」 「言わせんなよ」 「そんなん考えてたらタツボンいつまでも彼女に手ぇ出されんやん、それでええのん?」 今度は勢いよく、胸倉を掴まれていた手で突き飛ばされた。 「何や変な想像しとんのな。俺がお嬢と、どうしたって?」 夜目にも真っ赤な水野が睨む。 「タツボンが何考えとんのかは知らんけど? 心配されるようなことはしてへんで、俺ら」 「夜中に二人でいなくなっといて、なんでもないはないだろ」 「……ホンマに、何もしとらんで。ただちょっと他のカップルの喧嘩に巻き込まれそうになって、海に逃げたりはしたけど」 海に逃げて、泳いで巻いたというか、相手の気勢を削いだというか。 大人から見れば、高校生なんてただのガキなのだろう。 人目をはばかる光景をガキに目撃されれば、焦っても当然かもしれない。相手は二人とも、大分酔っぱらっているようだったし。 「そん時以外、お嬢には指一本触れとらん」 彼女を先導して逃げているときは、さすがに焦っていて、思わず手首をつかんでしまったが。 シゲが理由もなく、彼女に触れたのは昼のあの時、指先だけ。 「お嬢にはもう、つき合うまで手ぇ出さんて決めとるんや」 願掛けのようなものだった。始めてからもう半年になるが。 「……今日はちょっと、危なかったけどな」 他人のそいういう場面を目撃して、興奮しなかったといえば、嘘になる。 そもそもが、そういう年頃なのだ。欲望を抱くなというのは、さすがにできない勘定で、シゲは湧いてくる欲望を押しとどめている。 彼女はそれを解っている。解っていて誘っているふしさえある。 シゲが体を求めれば応じてくれるだろう。彼女は拒まない。理解っている。 甘い声をあげて、柔らかくシゲにされるがままに、抱かれてくれるだろう。 でもそこに、彼女の心はない。ないのだ。 「……多分、試されとるんやろな」 「何を?」 「堪え性とか、本気とか、誠意とか?」 「お前に似合わない言葉ばっかりだな」 「せやろ」 シゲは肩口を伝ってきた水滴を手で拭いながら言った。 「それでも、欲しいんやからしゃーないわ」 「好きなんだな」 「惚れとる。ぞっこんやな」 「……上條はちがうのか?」 お前を好きなんじゃないのか、と水野が聞く。 「嫌われとらんのは、確かなんやけどな」 シゲは自嘲気味に笑って見せた。 「そのうち他の男にかっさわれるかも知らん」 こうも先が見えないと、そう思える。 「……それでもお前、上條なのか」 「なんやそれ」 「お前の人気は知ってる」 「俺もタツボンの人気知っとるわーものすごいもんな」 「話逸らすなよ」 「ここまでくると逆に快感? 耐える喜びやな」 「……マゾっ気でもあんのか?」 「そうかもしらん」 シゲは息を吐くように笑った。 夜の波の音は、昼よりも大きく聞こえる。不安を煽る音色だ。 「……単純に愛しいてお嬢に触れたいー思ぅたり、大事やー思て抱きしめたい思うようになったん、こうなってからやからな。手に入ったもんもある」 彼女と恋人同士になるまでは、と決めて彼女と接するようになって、どんどん彼女を好きになっている。仕草や表情ひとつひとつをいとおしいと思う。シゲの隣でくつろいで、幸せだと感じてくれればいいと思うようになった。 その思いは、強くなればなるほど、胸に空く風穴が大きくなるのだが、そもそも恋とはそういうものなのだろう。 「……恋は魔物やな」 シゲは呟くように言った。 「魔物?」 「喰われるかもしらん」 シゲは、彼女と入った夜の海のことをを思い出していた。
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