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雪が降るまであと少し。
朝夕は息が白くなる。


9. 逢瀬


名前も知らない街路樹が、夜露に濡れて光っていた。街灯で、ぬめるように黒光りしている裸の木々。
冬枯れた木々のフォルムは、鋭くてシンプルで、本質的で、葉を茂らせていた夏の頃よりもずっと印象的だ。
緑の茂っていた頃を思い出せない。

そんなことを考えていると、隣にいた彼が麻衣子のマフラーを軽く引っ張った。
春になって中学を卒業したなら、彼は京都へ行くという。
進学先も、推薦でほぼ決定しているらしい。
「俺が居なくなったら、寂しゅうない?」
「まさか。せいせいしますわ。あなたがいなくなれば」
「さよか」
引っ張った時と同じだけの軽さで、彼の手はマフラーから離れた。
部から引退したからか、寒くなったからか、噂になってしまって人目があるからか、体を重ねる回数は減った。
ただ一緒にいることが多くなった。
特別、何をするでも、何を話すでもなかった。
「俺は寂しいで」
「あなたになら、いくらでも女の子が寄ってくるでしょ」
「お嬢にもすぐ彼氏できるやろな」
「さあ、どうかしら」
「3−Bの菅原に告白されたって聞いたで」
「……ただの噂よ」
「さよか」
あっさりと頷いた彼の横顔を、麻衣子は眺めた。
噂とは言ったが、それがどこから彼の耳に入ったのか、麻衣子は不思議に思った。
噂が流れて、彼の耳に届くにはタイミングが早すぎるのだ。

『佐藤と付き合ってんの?』

菅原君にそう聞かれたのは今日の、昼休みも終わる寸前の事だったから。

『ただの噂よ』
そう言った麻衣子の言葉を、彼は信じただろうか? 
麻衣子とシゲの間にある噂も、麻衣子はそう突っぱねている。

横を向いていたシゲの顔が麻衣子を向いた。
「……こっち、残ろうか思てんねん」
訥々とした口調で彼が言った。
「こっち、って?」
「東京。京都行かんでも、サッカーはやれるさかい……お嬢が引き留めてくれるんなら、やけど」
「引き留めないわよ。行きなさいよ」
「じゃあ、俺と、付き合うて」
「嫌よ」
「……なら、今日この後、暇?」
それは、二人の間では誘いの常套句で。
「……暇ではありませんけれど、付き合って差し上げますわ」
これは、承諾の決まり文句。
シゲは笑った。
「こっちはOKなん? お嬢、何やおかしぃない?」
「だってもう、冬ですもの」
春になれば卒業なのだ。
佐藤は、笑い顔を苦く歪めた。
「俺等、順番間違えてしもたんやな」
「……そうかもしれないわ」
でも、そうじゃなかったらきっと、こんな風に二人が並ぶことはなかったのだと思った。

シゲが不意に、麻衣子の体を抱き寄せた。
コート越しに伝わるもののなかには、相手の感触はない。裸の時に比べれば、遙かに少ない情報でしかない。それなのにどうして彼は抱き寄せるのだろう。
どうして、こんなに安心するのか。
わからないままがいい。卒業までもう三月とないのだ。
「なあ、お嬢。クリスマス、予定空けといてくれん」
「何よ、ずいぶん唐突な話ね。その頃は、勉強で忙しいのよ」
シゲと違い、高校に入るために受験しなければならない麻衣子は言った。
「そこ、なんとか。たまには息抜きも必要やろ」
「あのね。私の偏差値分かって言ってる? あなたといい勝負なのよ?」
「せやかてお嬢なら滑り止めぎょーさん受けるんやろ? お嬢様なんやから」
「失礼ね」
麻衣子は彼の胸を突き飛ばして彼から離れると腕組みのポーズを取った。
「ええやろ一日くらい。そんでそん日は、普通にデートしようや」
彼は繰り返した。
「12月の、25日や。約束やで」
「佐藤、どうして? 急にそんなこと」
「聞くってことは、オッケーやな? ほな帰ろか。なんや寒ぅなってきたし。風邪引いたら受験どころやあらへんで」
シゲに背中を押されるまま、麻衣子は歩きだした。
「いいなんて言ってないわよ、もう」

正直な話、デートなんて今更だと思った。

彼女を家まで送った後、シゲは冷たい風が吹く道をひとりで歩いた。
旗色悪い彼女の返事に少なからず傷ついていたが、この程度で引く気はなかった。
『上條って、佐藤と付き合ってんの?』
屋上で聞いた、菅原のセリフだ。シゲはどきりとして、彼女の返答を待った。
『どうしてそんなこと聞くの』
『……聞いたら悪いか?』
『いろんな人に聞かれたからもうあまり答えたくないの、その質問。私と佐藤の噂について聞きたいなら、回りくどくしないではっきり聞けばって言いたくなる』
『違うよ。興味本位じゃない。俺、上條さんが好きだから』
「……好きだから、か」
シゲは呟いた。
菅原はあの時確かにそう言った。シゲの隣のクラスの菅原。評判を聞くかぎりでは、なかなかの好人物だった。これと言って欠点も見あたらない。スポーツもやっていて、確かバスケ部の副キャプテン。
麻衣子とは2年の時に同じクラスだった人物。どれほどの距離にいたのかは、分からない。
『ただの噂よ』
彼女が嘘をついたのはあの時すぐ分かっていたが、とりあえずシゲは頷いたのだった。



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12月25日は、あいにくの曇り空だった。ホワイトクリスマスになるというならともかく、雪が降るほど寒くもないので、残念といえば残念な天気だ。
それでも、クリスマスカラーに彩られた街は、クリスマスソングを纏って浮き足立っているように見える。行き交う人々も。

「ねえ佐藤、こんな事してて、楽しい?」
「んー、お嬢は楽しくないんか?」
「……わからないわ」
「俺は、お嬢が楽しんでくれればそれでええんやけど」
クリスマス用にディスプレイされたウインドウを覗きながら、シゲは隣の上條麻衣子に答えた。

 駅前の待ち合わせ場所に、彼女は約束の時間5分前に現れた。二人でそのまま近くのデパートへ入って、女の子の好きそうな、服やアクセサリーの入ったフロアを見て回る。気に入った物があるなら買って贈るつもりだったが、手に取って見るどころか、長く足を止めることもなく、彼女はショーウィンドウを滑らかに歩き過ぎてゆく。
「どっか、行きたいとことかある?」
「……わからないわ」
「そればっかりやな」
彼は苦笑して麻衣子の手を引いた。
「じゃあ次行こ。近くに、でかいクリスマスツリーがあんねん」
クリスマスには定番のデートスポットだ。
だが、到着したそこには、誰かと待ち合わせをしている風情の菅原が立っていた。

「騙されたな」
シゲと上條麻衣子を見ると、開口一番に菅原は言った。
「上條さん、付き合ってないって言ったのに」
「嘘じゃないわ。付き合ってるわけじゃないもの」
彼女は隣に立つシゲを見上げる。
「ね、佐藤」
「……お嬢は嘘吐きやからな」
シゲはそう言ったきり黙った。
菅原も、何も言わず、黙ったままだった。気まずい沈黙が流れる。
ふと菅原の下の名前を呼ぶ声がして、見覚えのある同級生の男子が三人近付いてくる。菅原は、じゃあとだけ言い残して友達と一緒に居なくなった。
「嘘、なんて付いてないわよ」
立ちっぱなしで動く気のないシゲに、拗ねたような声で彼女が言った。
「付き合ってるわけじゃないもの。嘘なんて付いてない」
「そのことやない」
あの時、彼女は確かにシゲに言った。
「菅原に告白されとらんって言うてたやん。なんで嘘ついたん」
「嘘つきって、告白のこと? それだって、嘘じゃないわよ。あの時告白はされてないもの。菅原君には、付き合ってるかって聞かれただけよ」
「また嘘や。俺あの時、聞いとったんやで。屋上で、お嬢、告白されとったやろ」

『上條って、佐藤と付き合ってんの?』
『どうしてそんなこと聞くの』
『……聞いたら悪いか?』
『いろんな人に聞かれたからもうあまり答えたくないの、その質問。噂の事が聞きたいなら、回りくどくしないではっきり聞けばって言いたくなる』
『違うよ。興味本位じゃない。俺、上條さんが好きだから』
『……だから?』
『佐藤と付き合ってるんじゃなければ、俺と付き合ってほしい』
『……ごめんなさい』
『……やっぱり付き合ってるんだ。でも佐藤って、高校から京都に行くって話だろ? どうすんの』
『佐藤と私は付き合ってないし、春になってもどうもしないわ。でもあなたとは付き合えない』
『佐藤が好きなの?』
黙ったままの彼女に、菅原が言った。
『一応告白してんだから、理由ぐらい聞きたいんだけど?』
『私は誰とも付き合えないの』
『付き合わないんじゃなくて、付き合えない?』
『そうよ。だからあなたとは付き合えない』
『じゃあ、質問を変えるよ。俺と佐藤と比べて、どっちが好き?』
『……答えなくちゃいけない? ずるい質問だわ、それ』
『狡くなんかないと思うけど、狡いって言うなら俺が狡いってことでいいよ。答えてくれないかな』
『嫌いよ。あなたよりも佐藤の方が嫌いだわ』
『微妙な答えだなぁ』
『もういいでしょう』
『うん、よくわかった』
あーあ、と言いながら、菅原は伸びをした。
『俺、結構人気あるはずなのになー。自信無くすな』
彼女が軽く笑った。
『調子いいんだから。菅原君なら大丈夫。すぐ彼女ができるわよ』
『振ったばっかりの男にそれはきついって上條』
『……ごめんね』

その後も二言三言の会話があったが、昼休み終了のチャイムにかき消されてシゲの耳には届かなかったのだ。
でも、それでも十分だった。
彼女はシゲに特別な感情を抱いている。
多分、シゲには理解できない、複雑な感情を。

「……あの時、屋上にいたの? あの寒い中で。馬鹿じゃないの」
「居った。偶然な」
彼女はうつむいて、言った。
「なら。もう分かってるでしょ? 嘘くらい何よ。いくつ吐こうが私の勝手だわ」
「……そうかも知れんな」
うつむいたままシゲの言葉を聞いた彼女は、そのまま泣き出してもおかしくないほど頼りなげだった。
シゲは声の調子を変えた。
「なんや、せっかくのデートなんに、雰囲気悪ぅなってしもうたな。そろそろ腹減っとらん? メシ食お、メシ」



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デートというには一方的だったような気がするが、日が暮れるまでとにかく二人で過ごし、佐藤に送られて麻衣子は家に帰った。
ドアが閉まる音を聞いて、今日彼は麻衣子に全く触れなかったと気付く。
その意味を少しだけ玄関先で考えて、居間に入った麻衣子を、花束が待っていた。
麻衣子が家を出るときには影も形もなかったが、さっきまで一緒にいたのだから、本人が届けることはできない。時間指定で配達でもされたのだろう。白と緑を差し色に、赤い薔薇がよく映えている。
金・銀のリボンで纏められたそのクリスマスプレゼントには、メッセージカードが控えめに添えられていた。赤い台紙の上に白いカードが挟み込まれているデザインで、彼の手によるものらしい、たて長の字で書かれた、シンプルなメッセージが載っている。

『好きだ』と、たった三文字。

麻衣子はしばらくそのまま立ちつくした。
あの寒い日、屋上でのことを、麻衣子は思い返していた。

『上條って、佐藤と付き合ってんの?』
『どうしてそんなこと聞くの』
『……聞いたら悪いか?』
『いろんな人に聞かれたからもうあまり答えたくないの、その質問。噂の事が聞きたいなら、回りくどくしないではっきり聞けばって言いたくなる』
『違うよ。興味本位じゃない。俺、上條さんが好きだから』
『……だから?』
『佐藤と付き合ってるんじゃなければ、俺と付き合ってほしい』
麻衣子は少し目を細めて、菅原君の顔を見た。
本気で言っているのだろうか? そうだろう、ひどく緊張しているように見える。
……好きだから、付き合ってほしい。
告白するときは、みんなそう言うのだろうか? 麻衣子がそのセリフに覚えるのは感動とか感激ではなく、違和感だ。
どうしてみんな、好き、ということばを、そういう風に使うんだろうと思った。好きなら、付き合うのはあたりまえのような雰囲気、常識とか。どうしてそうなんだろうと思った。
好き、という言葉は、みんなが声をひそめ、憧れや明るさを持って話すような、恋や恋愛のイメージからはほど遠い。
そんなのありえないぐらい、遠い。
それなのに。
『……ごめんね』
『しょーがないって。好きな奴居るんなら、さ』
菅原君は、確信のこもったような、はっきりとした声で言った。
『佐藤が好きなんだろ。何で隠すの?』
『なんでって……』
麻衣子は視線を逸らしながら首を振って、その答えを出そうとした。
本気で告白してくれた彼には、ちゃんとした答えを返さなければならない。
それが最低限の誠意だ。
麻衣子はため息のように深く息を吐いてから言った。

『好きになったら駄目なの。好きになったら、全部、ぐちゃぐちゃになっちゃうから』





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