――偶然と不運、それがはじまり。
サボり癖が祟った。 朝寝坊で練習にちょっと遅れたら、コーチ直々に白線ライン引きの罰を言い渡されてしまった。 休日なんやから寝坊ぐらいするわ、と半ばふてくされながら渋々石灰でラインを引いていると、薄情な部員たちは次々に帰って行って、残されたのはシゲと居残り練習をしているど根性娘、上条麻衣子だけになった。 「なあ上条ちゃん、帰り送ったるから、ちょお手伝ってくれん?」 「リフティング教えてくれるなら、手伝って差し上げますわ」 「ええで、今度な」 とあっさり買収に成功し、作業を終えて一緒にライン引きを片付けに行った。 それからが問題だった。
太陽の外の国 1.Sunny days
校舎の影にある体育倉庫が、他の部と共用されているライン引きの普段の収納場所である。 あと五歩という距離まで近付いて、シゲは足をぴたりと止めた。 後から来た上条麻衣子が訝しげにシゲを見て、つられて立ち止まった。 「どうしたの?」 「しっ」 倉庫の中から声が細く漏れ聞こえてくる。若い女の声と、偶に男の声。 しばらく聞いてみて、状況と声質を考え合わせて、出る結論はひとつだった。 「あー、出直すで」 シゲは小声で隣の上条麻衣子に言った。このままではとんだ野暮天である。引き返すが吉。 「どうして、ふぐっ」 察しの悪い上条麻衣子の口を塞いで、とりあえず引きずって扉から離れた。
「なんでしまわないで引き返すのよ、中にいた人に断って、置いてくればいいじゃない」 倉庫から離れてその口を解放するなり、上条麻衣子はシゲを睨みながら言った。 「そういうわけにもいかんやろ。邪魔したら悪いやんか」 「何が悪いっていうのよ。何してたの? あの人たち」 「何って、ナニやろ、そりゃ」 「だから、なにって何なのよ!」 シゲはぴたりと足を止めた。しげしげと彼女の顔を見下ろす。 「ホンマに、わからん?」 「わからないから聞いてるのよ」 上条麻衣子はふん、とでも言いたげにあごを上げた。 「堂々と聞くこととちゃうんやで、お嬢。あのなぁ……、わっからんかなぁ……」 何と説明したらいいのやら。シゲは口ごもりつつ、彼女のうぶさに驚いていた。 ――普通、これ位の歳になったんなら、もう少し解り良いもんやないんか? よっぽどの阿呆か、箱入りか。 そういえば、この少女には親衛隊なんてのも張り付いていたな、とシゲは思い出した。 「ええか、お嬢。お年頃の男と女が二人でいて、ああいう声が聞こえてくるいうんは、答えはひとつしかあらへんのや」 「もったいぶらないでよ。何?」 「せやからー、秘め事っちゅーか、色事っちゅーか、要するにやな」 真っ正面から口にするのがためらわれる事柄ゆえに、色々言い換えてみたが、何一つとしてピンとこないらしい上条麻衣子にシゲはとうとう最後の手段に出た。 地面にしゃがみ込み、手近な石でアルファベット3文字を書く。 「え、何、英語?」 「そうや。聞いたことあるやろ」 隣にしゃがんだ上条麻衣子は首を捻る。 「えーと、数字の6? さっきのが? 意味わからないわ」 「……必殺のボケやな」しかも一文字違っとるっちゅーに。 「じゃあ、こっちは」とシゲは今度はアルファベット一文字を書いた。 「………」 「わかった?」 上条麻衣子は腕を組んでしばらく思案顔になると、 「………どう見てもアルファベットにしか見えないわ」 と悔しそうに口にした。 「自慢じゃないけど、成績だけは良くないんですのよ!」 真っ赤になって言うものだから、なんだか可哀想になってきたシゲは言った。 「あー、お嬢、エロいとかスケベとかいやらしいとか聞いたことない?」 「それ位はわかるわよ。バカで下品で頭が足りないってことでしょ?」 「………」 シゲはため息をついた。 知識がない、というより、この少女には、『そういうこと』の概念がないのだ。 「……お嬢は英語より保健体育の勉強せなならんな」 「失礼ね!」 勢いよく立ち上がった彼女は、背後にあったライン引きにけつまずいてよろめく。 「っと、危な」 シゲは手を伸ばして、彼女のウエストのちょい上あたりを両手で挟み込み、押さえた。次の瞬間。 「――!」 彼女の口から漏れた声に、シゲは思わず手を離した。 彼女はまたバランスを崩して、シゲの方へ倒れ込んできた。今度は受け止め切れず、シゲは彼女の下敷きになった。 「なんて声だしよるんや」 その状態のまま言った。 それはさっき、倉庫前で聞いた、耳奥に焼き付いている、あの声と同種の声。 彼女は、「わきが弱いだけですわっ」、と弾むように言って、シゲの胸の上で体を起こした。真っ赤な顔をした彼女のさっきと同じ部分、ウエストの上辺りにもう一度手を伸ばすと、彼女は身をよじって逃げようとする。 「な、何? 弱いって言って、ぁ、ちょ、さ、佐藤!」 彼女が上げる声に、耳を塞ぎたくなった。 ――まったく、何て声出すんや畜生。二人きりで助かったわ。何しとるんや思われてまうで。 抵抗する彼女をそのまま持ち上げ、彼女の体を自分の上からどかせてから、シゲはつかんでいた手を解放した。 「重い!」 わざと不機嫌に言うと、「失礼ね!」と返された。 立ち上がってわざと大げさに尻と背中をはたいて土を落とす。妙な気分がすこしでも紛れればいいと思いながら。 けれど、同じく立ち上がった彼女が土のついた膝を叩きながら小さな声で「ありがと」と言ったのを、シゲは聞いてしまった。 一瞬、ぐらっと地面が揺れた。 頭の中にある、普段は覆い隠されている筈の野生、最も本能的な血が沸き立っている気がした。 「……ええて」 と返し、ライン引きを持って歩きだす。彼女は後ろからついてきた。 「しゃーないから、明日まで部室に置いとこ」 「そうね」 シゲはサッカー部へ、上条麻衣子は体操部へと、着替えのために別れた。 バタン、と隣の体操部の扉が閉まる音に気を抜いて、シゲは手近な椅子にへたり込んだ。 「……何なんやアレは」 箱入り、どころではない。どかに勘違い機能でもついているとしか思えないうぶさだ。 あの調子で世の中渡っていけると? 男の中に混じって?
柄にもなく心配してしまっている自分に、シゲは笑った。 シゲが想定している男、それは彼女に対してシゲのような感情を抱く奴らのことだった。 シゲは天井を見上げた。狭い部室の天井は骨組みがむき出しになっていて、むき出しの鉄筋には錆が浮かんでいる。 休日の学校に人は少ない。まして、この近くにはシゲと彼女しかいない……そう考えて、首を振りながら立ち上がった。そうでもしないとさっき彼女にのし掛かられた柔らかな感触が蘇ってきそうだった。 どうにかしている、と思った。 実際、あれ程近くに”異性”の気配を感じたこと自体、初めてだった。 今一番彼女にとって危ないのは多分、シゲだ。 「何だったんですの、さっきのは?」 着替えを終えて出てきた彼女の耳がまだ仄かに赤いのを見て、生唾を飲み込みたくなった。
「明日の練習の後、さっきの場所に来るなら教えたる」
言い訳になるが、帰り道の別れしな、そう口にしたシゲにも、罪悪感はあったのだ。
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